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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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梅森直之 編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(その2)
第二部 アンダーソン事始 より

 ところで、とてもむずかしい話を聞いたあと、皆さんはどうしていますか。僕は、他人の迷惑も顧みず、そのへんにいる友人をつかまえて喫茶店へ連れ込み、とりあえず聞いた話の感想を、しゃべってみるようにしている。これは、結構いいですよ。しゃべっているうちに自分の考えがまとまってきて、「なるほどそうだったのか」と叫んだことも一度や二度ではない。(p.110-111)



非常によくわかる。研究成果を発表したときなどもその発表の場だけで終わらずに、もっと砕けた話ができる場をその後に設けると理解が進むという経験はよくあることだ。

また、この読書メモ用のブログ「アヴェスターにはこう書いている?」などもそうだが、こうやって文字にして書き出すことも同様の頭の整理になることがある。このブログの場合、必ずしも本文の文脈とは関係がなくても、単なる連想のメモなどでも記録しているが、意外と自分の頭を整理するには役立つことがある。




 問題は、本質主義と構築主義のどちらが、いかなる場面で、どのような「日本人」についての説明を与えてくれるかということだ。「日本人」について考えるうえで、僕たちの常識となっているのが本質主義であるということを、とりあえずは認めてよいと思う。僕たちは通常、「日本人」が「いる」とは考えるが、「作られる」とは考えないからである。しかしこの「常識」も、少し厳密に考えてゆくと、そこにはいろいろなほころびが見えてくる。
 たとえば文化的規定の場合。僕たちは、礼儀正しい外国人がいることも、わがままな日本人がいることも、個人的経験を通じてよく知っている。だからこの命題(※引用者注;「日本人とは、礼儀正しく和を重んじる(=主体性がなく自己主張ができない)人々である」という命題)については、容易に反証を挙げることができる。
 確かに個々人について見ると例外もあるが、やっぱり平均的な日本人についてはそう言えるのではと考えるあなた!平均的な日本人について語るためには、すでに日本人とは誰なのかがあらかじめ決められていなければなりません。つまりどのようにがんばっても、文化によって「日本人」を決めることはできないのである。なぜなら文化的規定とは、すでに存在している「日本人」の特徴を記述するものに過ぎないからだ。
 ・・・(中略)・・・。歴史もまた「日本人」を規定することはできない。なぜなら「日本人」が、歴史の範囲を規定しているのであって、その逆ではないからである。(p.116-117)



端的に文化的規定と歴史的規定の問題点を示している。

実際にはもう少し問題は込み入っていると私は考えるが、ナショナリズム研究についての文献も読んだことがなく、素朴にナショナリズムを信じている人に軽く説明する時には、このくらい単純化して割り切って話すことが必要だろう。その意味で参考になる。

「あまり厳密に言わないで、だいたいの日本人は●●だ」という論の場合でも、同じ論理で反駁できる。また、この議論のより極端な形式として「日本人は●●なのが国民性だ」という言説があるが、それも同じである。

しばしば、リアル世界でこの言説に異論を唱えても、ピンと来ない人が結構いる。その人たちの頭の中は「●●な日本人」しか想像せずに、それを母集団として考えているワケだ。だから、彼らの想像に任せる限りではどんなに頑張っても「日本人は●●な人」という答えになってしまうようである。彼らは頭の中で循環論法を使って、いわば自分を騙しているのだが、そのことに気づいていないらしい。まぁ、それにはそれなりの理由があって、そこが私とこの著者の割り切った物言いとの違いなのだと思うが、それを書いていると別のことができなくなるので今は割愛しとく。




自分と異なる考え方、行動の仕方をする誰かに出会うとき、僕たちのなかに、怒り、悲しみ、笑い、憎しみなどさまざまな感情が生まれる。そうした感情は、その相手が、なぜそのように考え、ふるまうのかを理解するための大切な第一歩である。
 しかし堅すぎるアイデンティティは、この一歩を押しとどめる。「なぜ?」。この感情の叫びに、本質主義はこう答える。「それはあいつが女(男、韓国人、中国人、日本人、黒人、白人、ムスリム、クリスチャン…)だからだ」。こうして僕たちは、誰かを理解したような気になり、そこで考えるのを止めてしまう。だから本質主義は、けっして誰かを深く理解することにはつながっていかない。「本質」とは、僕たちが「誰か」を理解する努力を放棄して引き返した場所に立てられた白旗のようなものだ。(p.125-126)



上で述べたことと関連するが、本質主義の立場は、「勝手に結論を先取りしている」のだから、他者を理解することに繋がらないのは当然である。




 日本の研究者は、これまで、みずからの社会をもっぱら西洋社会との対比においてとらえてきた。天皇制国家、タテ社会、恥の文化、超国家主義……。こうしたレッテルは、実のところ日本社会の特質を示すと言うよりも、日本と西洋とのあいだに存在する距離を測っているにすぎない。西洋としか比較しないので、僕たちは日本が、特殊な社会であると考えることに慣れきっている。もう少し、視野を広げてみれば、同じような問題に直面し、同じような解決をはかろうとしてもがいた世界中の多くの人々の経験が目に入ってくるというのに。(p.148-149)



そのとおり。




しかしながら、アンダーソンの研究が、そのような経済史的アプローチと異なる点は、かれがグローバル化を、カネやモノの動きとしてではなく、徹頭徹尾そこで生きるヒトの認識という次元からとらえようとしていることである。(p.162)



アンダーソンの思想の解説として非常に適切。




 一般的に信じられているように、ナショナリズムの時代が終わり、グローバリズムの時代が到来したのでない。グローバリズムは、つねにナショナリズムとともにあり、むしろその生成と発展を促してきた。アンダーソンはこのように主張する。(p.163)



個人的には、本書を読んで最もためになったのはこの点についての認識だった。




 これまで多くの比較研究は、それぞれの国や社会の特徴を明らかにするというよりも、当該の国や社会が、西洋の国や社会のあり方からどれほど逸脱しているかを実際に測ってきた。そしてその逸脱の程度を、時間軸を利用して序列化したものが、近代化論と呼ばれるものさしである。
 このものさしのからくりは、多様に存在する空間的な差異を、時間的な遅れとして、一元的に説明することにある。(p.174-175)



この解説者(梅森氏)は、割り切って分かりやすく示すのがうまい。この近代化論の説明もそのひとつだろう。




 ナショナリズムをアナーキズムが結びつけていたというこのテーゼは、きわめて大胆な問題提起である。なぜなら従来の思想史において、ナショナリズムとアナーキズムは、常に不倶戴天の敵であるかのように扱われてきたからだ。ナショナリストは、アナーキストを、しばしば自己中心的で統制のきかない観念的なテロリストとして非難してきた。一方アナーキストは、ナショナリズムを、個人の自由を抑圧し、他国への侵略を助長する偏狭で好戦的な教義であると主張してきた。
 たしかに国境で区切られた国の内部で起こった事件のみを眺めている限り、このような見解が導き出されるのもやむを得ないところがある。しかしながら、国と国のあいだから歴史を見直すと、まったく違った景色が見えてきますよとアンダーソンは言うのである。(p.177)



このあたりはアンダーソンの新しい本でしっかり読んでみたいところだ。




アンダーソンをめぐる14の対話 より

 国家というのは、1945年以後、さらに増えてきてはいます。しかし重要なのは、どの国も自国の領土をそれ以上広げることができなかったという点です。イスラエルはやったと思われるかもしれませんが、実際はできなかったのです。西岸地区を支配したにとどまり、イスラエルの一部として併合するには至っていないし、今後も多分できないと思います。なぜそうなのでしょうか。なぜいまの世界では領土を増やすことはできないのでしょうか。
 その答えはナショナリズムが、領土を神聖なものにしてきたからです。多くの人が、国の領土は、取引の対象にはならないということを当然のこととしてうけとめています。(p.212-213)



大変興味深い指摘。領土が神聖化されたために、それを巡る争いは激越なものとなる。勢力が強い側が制圧しても、それに対する抵抗はとてつもなく大きな反発となる。そうした傾向はあると思われ、それにナショナリズムが貢献しているのも確かだろう。

ただ、政府間の利害関係によっては、ある程度の取引はなされうると思う。問題は利害と理念(神聖化)が、ほぼ完全に同じ方向性を示しているときであろう。




 この分離独立のプロセスに最も脆弱なのは、古い帝国が、ネーションを装っているような国の場合です。イギリスがその一つの例です。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを抱えていますから。ロシアもその明らかな実例です。中国とインドもそうです。これらの古く、巨大で、時代遅れの帝国は、岩や石ころをその内部に抱えていて、それらはいつの日か自立の道を歩むことを夢見ているというわけです。ヨーロッパでもそうだと思います。スペインなどでは、その一部が独立を目指すでしょう。それが平和裏に実現するか、暴力的に行われるか、予測はつきません。ただそれが起こることだけは確かです。(p.214-215)



中期的な世界情勢を考える場合には興味深い仮説。

特に中国は新疆やチベットなどが気になる。しかし、今のように高度な経済発展が続く間は分離はしないだろう。その「おこぼれ」が地方に回るからである。低成長の時代がいつかは来ると思うが、その時に危機がやってくるだろう。中国の場合、一人っ子政策のおかげで30年後くらいには人口のバランスが崩れて今の日本のようになる。中国の場合はだから、本格的にこの問題が出てくるのは20~30年後だろう。中国の場合は、その前に台湾の問題があるが、これはなかなか予測が難しい。当面は概ね現状維持だろうが。

スペインなども興味深い事例だし、トルコもクルド人の問題などがあって、この仮説の枠内に入るだろう。しかし、この仮説が余り当てはまりそうもない事例がある。イランだ。イラン古くから大帝国の一部であり続けてきたし、国内の言語や「民族」も相当多様だ。しかし、「イラン人」としての結束の方が遥かに強いと思われる。その意味で、万能の仮説ではないにせよ、興味深い仮説ではある。
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