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アヴェスターにはこう書いている?
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朱建栄 『中国 第三の革命 ポスト江沢民時代の読み方』(その1)

 中国政治は今もなお一党独裁である。これは別の角度から見れば、中国のここ二十年の社会構造の変動をもたらしたのは近代ヨーロッパ方式の政治牽引ではなく、戦後の東アジア方式であることを裏づけている。経済の発展は社会構造・国民意識の革命的な変化をもたらしたうえで、必ず市民社会の形成および政治の民主化を促進していく。これは韓国、台湾、タイなどがたどった政治プロセスが証明したことである。(p.17)



これは2002年に出た本である。

半周辺的な地域に住んでいたり、その地域の国籍を持つ知識人の多くは、未だに近代化論のモデルを信じている。本書の著者もその一人であり、そのモデルの枠内で中国社会について位置づけている。

その点については私は意見が異なるのだが、中国政治は一党独裁のままでありながら、経済の発展によって徐々に民主化が進んでいく傾向があるという認識では一致している。

経済力が向上すれば、生活するために必要な所得を得ることが相対的に容易になると考えられる。また、生活のために働かなければならない労働時間も相対的に減る。そうした各人の生活における余力が、主に、余裕そのものと教育機会の拡大という2つのチャネルを通じて、政治的な参加機会を拡大すると私は見る。

教育程度が向上してリテラシーが向上することは、政治的なレトリックを読み取り、自らの意見を発信することに繋がる。そのような基礎的な潜在力が民衆に根付いていくと同時に、政治的な発言や行動を起こすだけの時間、労力、金銭といった様々な面での余力が、政治的行動(市民運動等)へと繋がっていく。

これは人々の持つ「権力」が増大することを意味する。行動する力、発言する力、批判する力、経済的な力、ネットワークを作り団結する力等々が社会的に高まる。これによって、国内の政治的な権力の重心が下方シフトする。これが民主化である。

この動きがある程度まで進み、機会が訪れたとき、制度面でも社会の実情に合わせた変化が(少しずつ)行われる。こうして制度面でもデモクラティックなものに近づいていく。

完全ではないにしても、こうした傾向は世界の様々な地域の歴史に見て取れるように思われる。著者は、ヨーロッパのモデルと東アジアのモデルは別物だと考えているが、私の考えではこれらの地域の「民主化」の進み方はそれほど違うものではない。ただ、民主的な政治体制を擁護するイデオロギーが――他の地域の理論的正当化の雛形となるようなイデオロギーが――最初に明確に定式化されたのは西欧だったというだけである。社会の変動はどちらも経済の向上が先行した。

さらに言えば、国際関係の観点から見ても、ある政治的領域の外部からの干渉を相対的に小さくするためにも、経済力が大きい方が有利である。金持ちの外国が貧乏な国の政府に内政干渉するのは、逆の場合よりも遥かに容易だから。いわゆる発展途上国では民主化があまりうまく行かず、いわゆる先進国では議会制デモクラシーがある程度機能する傾向があるのは、こうした要因も大きい。

そうした外圧を跳ね除ける(干渉されない)ためには、通常よりも大きな経済成長率で急成長する中で、国内の政治的対立を短期で収拾する必要があると思われる。NIESなどがある程度民主化に成功したとされるのは、そうした要因もあったのではないか。

話は変るが、往々にして、ナショナリズムを素朴に(当たり前のこととして)信じている人々は、こうした社会変動や国際政治についての考察や検証をしないで「国民性論」によって解釈しようとして、判断を誤っていることが多い。




 この十年余りの間、江沢民はいつも「保守的で、政治改革をしない」と批判された。彼は少なからぬミクロの問題の処理において反応と対応が硬直的でしばしば後手後手に回った。しかし角度を変えて見ると、マクロの面で経済の改革と発展の内外環境を整備し、政治・権力闘争と国民意識の混乱を回避したのはほかならぬ江沢民であって、それゆえに高度成長が持続した貴重な十年間が得られた。その間、中国の計画経済は「安楽死」し、経済規模は二・五倍になり、毛沢東時代より五、六倍大きくなった。この基礎があれば、二十一世紀の中国が相当思い切った政治・社会改革に踏み切っても大きな混乱を避けられるという見通しが立った。逆にこの基礎がなければ、仮に江沢民が幸運にも政治民主化を推進しえたところで、政治と社会の混乱、権力闘争は必ずいつか、どこかで起きたに違いない。(p.77)



江沢民の時代には「政治改革」はそれほどなされなかったが、「改革・開放」路線は着実に進み、経済力が増大したために、かえって、将来の政治改革の基礎が整ってきたと著者は見ている。概ね私も同じような見方だと言っていい。

ただ、中国経済の発展は「中国政府のマクロ経済政策が適切だったから」できたと捉えるのは、やや一面的というか積極的過ぎる見方ではないか。むしろ、90年代以降の中国の政治は、グローバルな経済環境の下における経済の発展要因を撹乱・阻害しなかった、という消極的な役割を果たしたに過ぎないのではないか。

中国の外部に、投資先を探している膨大なマネーがなければ、改革開放は意味をなさないし、中国の莫大な人口は潜在的な市場であり、それを幾らでも刺激できる状況であればこそ、市場原理の導入という方策によって、経済の好況が維持できる。完全雇用が成立する分野や地域が出てこれば、そこでは市場原理を最大限活用するだけで「自動的に」経済が活況を呈する。

需要が供給よりも大きな社会(完全雇用が実現している社会)では市場原理は有効である。日本のように需要が伸び悩み、供給できる能力の方が余っている社会では市場原理は、ほとんど逆効果しかもたらさない。日本から中国や成長著しいアジア諸国を見る場合には、このあたりの状況の相違を計算に入れなければならないというのが私見である。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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