しかし、私たちは、バーザールで圧倒的な「勝者」の姿を見つけることができなかった。AはBに仕入れ値のプラス十元で売り、BはそれをCにプラス五元で転売する。消費者に至るまで、商品はそうしてグルグルと回る。誰もが少しだけ儲け、共存するシステム。買い手には観光客や市民もいるが、多くは同業者で、彼らはそれを他の場所で売り、少しの儲けを得るのだ。それは、勝者なきバトルロイヤル、あるいは、十万人のワークシェアリングのように思えた。(p.41-42)
これはシリアのアレッポのスークについて分析した黒田美代子『商人たちの共和国 世界最古のスーク、アレッポ』に通じる認識である。
私たちはそのことに強い関心を持った。チャサーに暮らすのは、全員が中国の少数民族であるウイグル族で、彼らの都といわれたカシュガルは改革開放の名の下、豊かさを獲得するために一元化(あるいは中国化、または近代化)への道を突っ走っている。その時代に彼らはどのように生きようとしているのか。近代化に埋没するのか。意固地になって独自性を維持しようとするのか。面従腹背でしたたかに生きるのか。それともまったく別の選択肢があるのか……。(p.49)
興味深いテーマである。カシュガルについては、第三の選択肢に近いのではないかと思っている。そう遠くない未来に、西域には行ってみたいと思っている。その際にはこうした視点を持って見てきたいところだ。西域に限らず、中国やインドなどの急速に経済発展している地域では、こうした視点は欠かせないように思われる。
実のところ、私が西安で心惹かれたのは、シシカバブの煙が立ち込める屋台村や、回族の人びとが暮らす昔ながらの路地裏だ。一流ブランドではなく、中国ならではの色とりどりの雑貨にあふれた市場。そういった猥雑なものだった。だが、皮肉なことに、こういった場所はあっという間に取り壊されていく。 二年前に訪れたときに実に楽しかった大麦市街と呼ばれるイスラム街は、すでにない。西大街の雑貨市場は、立ち退きのマークであふれ、「取り壊し前の最後のご愛顧セール」をやっていた。おそらくいまは、跡形もないだろう。(p.177)
急速に開発が進む2005年の西安についてのディレクターのコメントである。
70年代のイタリアのように、中国が「保存」に気づくのはいつになるだろうか?広大な国土の辺境にだけ残された頃にようやく気づくのであろうか?
私が見てきたところでは、世界システム論でいうところの「半周辺」的な地域に土地に住む人々は、どうしても自分たちの住む土地の独自のよさにはあまり気づいていないことが多い。自分たちの住む土地を好む場合にはちょっとおかしなナショナリズムと結びついていることもあって、私の感覚とはズレがある。
半周辺に住む多くの人は、豊かな地域のライフスタイルに対して憧れを持つ。「反米」というレッテルを貼られがちな地域の人びともアメリカのライフスタイルやポップカルチャーを好んでいることも多い。イランなどがそうだ。
確かに、経済的な豊かさがもたらす恩恵は非常に大きく、それに対する憧れのようなものがあるのは理解できる。しかし、あまりに変化が急激な地域では、せっかくのその地域の独自性が失われてしまい、外から入っていく人間から見ると「もったいない」と思うことがある。
近年の中国などはまさにそうした状況なのだろう。北京の風情のある胡同ももどんどんなくなっていると聞く。上記のような文章を読むと、イタリアのまちづくりのあり方などは、やはり学ぶべきものも多いのだろうという思いを強くする。
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