アヴェスターにはこう書いている?
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片桐薫 編 『グラムシ・セレクション』

 実際、ユートピアは、歴史を自由の発展と考えることができず、未来を既成の型にはまった固定したものと考え、予め定められた計画を信じることである。(p.21)



「美しい国」というレトリックも、ある意味ではユートピア論の系譜に連なるところがあるかもしれない。例えば、宗教が社会改革の理論を提示するときのパターンと同じである。

より具体化した事例では、イスラーム原理主義と呼ばれる政治思想と「美しい国レトリック」は論理的な構造はほぼ同じであるように思われる。「分かるような分からないような曖昧な理想像」を唱えながら、そこに至る具体的な道筋は描かないままに、「教祖」の言行に従えば、そのユートピアを実現できるとする。




 カエサル主義[古代ローマの共和制のもとで人民主義に立脚した軍事皇帝制]とは、相い闘う勢力が破局的な仕方でたがいに均衡を保っている状態、すなわち闘争の継続が共倒れに終わるほかないような仕方で、たがいに均衡を保っている状態を表す。進歩的勢力Aが退歩的勢力Bと闘うとき……、AもBも勝たずに共倒れし、第三の勢力Cが外部から介入して、AとBとの残存勢力を従えるということも起こりうる。古代世界で蛮族の侵入によって起きたようなことが、ルネッサンス期のロレンツォ・イル・マニーフィコの没後、イタリアでは実際に起きた。……
 カエサル主義には、進歩的形態と退歩的形態がありうる。そしてそれぞれのカエサル主義の形態の厳密な意味は、社会学的図式ではなく、究極的には具体的な歴史によって再構成されうる。カエサル主義は、その介入が進歩的勢力の勝利を助けるならば、ある種の妥協や限定的性格をともなっていても、進歩的だといえる。また、その介入が退歩的勢力を助けるならば、退歩的である……。カエサルとナポレオン一世は進歩的カエサル主義の例であり、ナポレオン三世とビスマルクは退歩的カエサル主義の例である。重要なのは、「革命-復古」の弁証法のなかで、支配的なのは革命的な要素か、それとも退歩的な要素かを見ることである。なぜなら、歴史の運動においては、逆行はありえず、「全面的な」復古もありえないからだ。そのうえカエサル主義は、論争的-イデオロギー的定式であって、歴史的解釈の基準ではない。一人の偉大なカエサル「英雄的」代表的人物がいなくても、カエサル主義的解決はありうる。議会制度そのものも、そうした妥協的解決のためのメカニズムを提供してきた。(p.74-75)



進歩的か退歩的かは「具体的な歴史によって再構成されうる」というのは、ある時点の歴史的状況から見て、その時点が「革命」によって到達されたような変動局面にある場合は、そこに至る原因となった要素を進歩的と見なす、といった相対的な認識のことを指すものと思われる。

そうした相対主義をとりながらも、グラムシはカエサル主義には進歩的なものと退歩的なものがあるとする。Wertfreiheitが要請するような自らの立脚点の自覚化がされていないと、誤りを犯す可能性が高い区分ではあるが、それなりの有効性も持っているように思われる。

この件で書かれているこう着状態は、現在の日本の政治状況を想像させる。自民党と民主党が対抗する中で、政界再編も囁かれている状況には、どこか重なるものがある。その場合、現在の日本の政治状況は、退歩的カエサル主義になっていると見ることができるのではなかろうか?




 多くの囚人は刑務所の図書室を馬鹿にしています。たしかに、一般に刑務所図書室の蔵書にはまとまりがありません。出版社の売れ残り本を引き受けた慈善団体からの寄贈本とか、出所者が置いていった本など、偶然に集まったものばかりで、抹香くさい本や三流の小説でいっぱいです。しかし、政治囚はカブラからでも血を採り出さなければならないと私は思います。肝心なのは、自分の読書に目的をあたえることです。……すなわち、「なぜ、こういう文学がもっとも多く読まれ、多く印刷されるのだろうか。これらはどんな要求を満たしているのだろうか。こんな低俗な本がこれほど多く読まれるのは、どんな感情や考え方がそのなかに表現されているのだろうか」といった観点です。……どんな本でも、とくに歴史の本なら、読んで無駄ということはありません。どんなつまらない本のなかにも、なにか役に立つものを見つけることができるものです。(1929年4月22日――タチャーナへの手紙)(p.220-221)



グラムシが述べている方法は、社会史や科学史また人類学などの方法論を想起させる。それはそれとして、ここで本に対して言われていることは、現代ならばウェブ上のコンテンツなどについても言いうるだろう。また、ブログで言えばエントリーだけでなくコメント欄などにも適用できるものである。




国家があまり人気のない行動にとりかかるときは、あらかじめ適当な世論をつくり出す。つまり、市民社会のある要素を組織し集中する。(p.281)



憲法改正などは完全にこのパターンで行われようとしている。稚拙なリーダーが出てきたために、ようやく、少なからぬ人々がそれに気づきはじめている、というのが現在の状況であろう。




 子供たちの教育方針について、適切な判断を下せるのは、子供たちと身近に接していて、その成長の全過程を見守っていける人だけです。(p.308)



「教育再生会議」のような井戸端会議並みの集団に教育を議論させるのはこの原則に完全に反する。彼らは子供たちと接してもいなければ、成長の全過程を見守るなどありえない人たちばかりだ。それで良い教育方針などできるわけがない。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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