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アヴェスターにはこう書いている?
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高橋哲哉 『思考のフロンティア 歴史/修正主義』(その2)

 まず、物語り行為とは「歴史家から読者に向かっての<記憶せよ!>という呼びかけ」であり、そこには「<記憶の世代的継承>を他者に向かって要請するという倫理的態度」が前提されている。(p.42)



歴史家による「記憶すべき事柄の選択と排除の行為」の中に、すでに「記憶せよ!」という命法が響いているのであれば、「倫理」は「最後」にではなく「最初」から、つねにすでに「語られて」いるのではないか?(p.49)



歴史に限らず、一般に「物語り行為」の前提には、<記憶せよ!>という要請があることは確かだろう。

このことは、「観察の理論負荷性」とも関連はするが、同じではない。factが成立するとき、それは理論負荷されなければ成立しない、つまり、意味をもたないわけだが、それを他人に伝える際には、さらに別種のフィルタリングが行われるということであろう。別の意味もありうるし、さらに深く掘り下げてみたいテーマではある。




 第一に、「事後的」判断を「後知恵」として斥けるならば、いかなる「再審」も不可能になる。あらゆる「再審」は「事後的」であり、そもそも、あらゆる「審判」は「事後的」である。ニュルンベルク裁判や東京裁判、戦後半世紀を越えてなお行われるナチ戦犯裁判を持ち出すまでもなく、通常のあらゆる裁判も「事後的」である。出来事に対する評価としての「判断」は、どんな場合にも、出来事に対する時間的遅れ――たとえそれがわずかな遅れであっても――を前提とする。歴史における「審判」が「事後的」であるのは、「審判」の本質構造に属しており、「事後的」であることはむしろ「審判」の歴史性を示しているのであって、「絶対」性や「超越」性に結びつくものではない。現在から歴史を「裁き直す」ことこそ、歴史の「再審」であろう。元「慰安婦」の告発も、歴史への「再審」請求としては、明らかに「事後的」である。(p.92)



判断=審判(judgement)が常に事後的なものであるという指摘は正しい。それはあらゆる「観察行為」が事後的であることと関係している。観察がなければ判断もない。観察は知覚(ポイエーシスと同時になされる)とは異なっている。




 ここで重要なのは、俗流ニーチェ主義の誘惑に負けて、「裁き」と「復讐」とを混同しないことである。「裁き」は原理的に「復讐」とは異なる。暴力の被害者がルサンチマンや怒りの感情を抱くことは理解できる。しかし、被害者感情から報復行為に及ぶことと、法に基づく「裁き」を求めることとは違う。報復はさらなる報復を呼び、対抗暴力はさらなる対抗暴力を引き起こし、際限がない。ホロコーストのユダヤ人サバイバー、アバ・コヴネルは、600万犠牲者の復讐のため、ドイツ諸都市の水道に毒を流し、600万ドイツ市民を殺害しようと夢想した。本当に復讐しようと望むなら、法的「処罰」とは別の手段がめざされるだろう。「責任者処罰」は、第一に、法という第三者の審級に訴える点で、被害者の恣意による報復とは区別される。第二に、ハンナ・アーレントが説くように、「処罰」は、もしそれがなければ際限なく続くだろう暴力の応酬過程に介入し、そのプロセスを断ち切る点で、復讐よりもむしろ「赦し」に似ている(志水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫,1994年,377頁)。「日本軍性奴隷」のサバイバーが求めているのは、法的正義に従った「裁き」であり、責任者の「処罰」であって、恣意的な「復讐」の実現ではない。復讐裁判との疑念を払拭するためには、「死刑」を排除することも重要である。この点で、かつて日中戦争の日本人戦犯を裁いた「中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷」(1956年)は、見事な先例を示している。ちなみに、ヨーロッパ・国連の戦犯法廷ではすでに死刑は廃されており、「人道に対する罪」でも最高刑は終身刑にとどまる。(p.98-99)



「裁き」と「復讐」の区別もまた重要なものである。

近年の日本では特にそういえる。裁判員制度が導入されたり、被害者の関係者が裁判に関わるようになると、第三者的な「裁き」から恣意と怨恨に基づく「復讐」へと裁判の性格が変わっていくことを助長するように思われる。

裁判員制度は第三者に見えるかも知れないが、当局による思想的選別などが可能な人々であり、与えられる情報の客観的な処理の仕方を踏まえた専門家とは異なり、一層、情緒的な好き嫌い、印象にたよった判決になる可能性が高く、その意味で恣意的な傾向が増大する可能性が高い。この問題についてはまだ調べていないので、見解は大いに変わりうるが、今のところはこのように見ている。




 第一に、法の歴史的起源とその理念の射程を混同してはならない。国際人道法がヨーロッパ出自であり、「人道に対する罪」や「人権」、「人間の尊厳」等の理念の故地がヨーロッパであったとしても、だからといって、それらが永遠に<ヨーロッパのもの>であり続けるわけではない。(p.104)



なるほど。ユーロセントリズムを批判する時などには一応、念頭においておくべき考え方である。




第三に、ヒロシマ・ナガサキの被爆者の出身国は20を超えており、被爆の記憶を「日本=唯一の被爆国」というナショナル・メモリーに「国民化」することはできないということ。とりわけ、強制連行により連れてこられた人々を含め、広島・長崎合わせて数万の朝鮮民族の被爆者がいたこと、彼らの存在が戦後ほとんど忘れられてきたことは、ヒロシマ・ナガサキの「被害者意識」を「脱国民化」するために、必ず想起されるべきことである。(p.107)



なるほど。日本ではこのことはほとんど語られることがない。これこそ「記憶せよ!」というべきことだろう。
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