「暗点」とは視野の中の欠損部分であり、それによって見えない箇所が生じる。同様に、意識野に「暗点」ができて、ある種の体験や出来事があたかもなかったかのように認識されるのが「暗点化」である。 ……(中略)……。 そもそも、自分の見たいものしか見ようとしないのが人間という動物だ。だから、「暗点化」は誰にでも起きうる。これは心穏やかに暮らすための自己防衛の手段なので、当然ともいえる。 もっとも、「暗点化」が起きやすい人と起きにくい人がいる。「暗点化」が起きやすいのは、だいたい自分には“非”がないと思い込む人である。こういう人は、強い自己愛の持ち主であることが多い。 ……(中略)……。 ここで見逃せないのは、本人が必ずしも嘘をついているわけではないということだ。少なくとも、本人の認識では、嘘をついたつもりは毛頭ない。自分にとって不都合な事実が知らず知らずのうちになかったことになっていただけの話である。 周囲の目には、都合がよすぎるように映るし、ときには反感を買うかもしれない。しかも、「暗点化」によって自分の“非”がなかったことになると、どうしても相手の落ち度が目につきやすい。(p.72-75)
自分の自尊心を守りたい→不都合な事実を見えないようにする→自分には非がないと思うことができる→よくないことは他者に原因があるはずだという意識が生じる→他人の落ち度が目に入りやすい、といった心理のメカニズムが非常によくわかる箇所。
厄介なことに、加害者とみなす相手に怒りを覚えても、直接ぶつけるのが難しい場合が少なくない。……(中略)……。 それでも、怒りが消えてなくなるわけではない。……(中略)……。だから、その矛先を方向転換して別の対象に向ける「置き換え」というメカニズムが働く。……(中略)……。 同様のメカニズムが働いた結果起きていると考えられるのが、政治家や芸能人などの発言、あるいはネット上に掲載された記事の炎上である。……(中略)……。 ……(中略)……。 こういう人は、いわば他人の怒りに便乗して怒るわけで、“便乗怒り”といえる。この“便乗怒り”は、「他の人も怒っているのだから、自分も怒ってもいい」という理屈で正当化されやすい。当然、怒っている本人は、自分が悪いとは思わない。 ……(中略)……。 心理的な抵抗が小さくなると、怒りの対象だったはずの発言や記事がそもそもどんな内容だったのかも、どのような文脈で発信されたのかも、それほど重要ではなくなる。なかには、そんなものはどうでもいいとさえ思う人もいるようだ。 こういう人の多くは、「誰でもいいから叩きたい」という欲望に駆り立てられている。……(中略)……。 そのうえ、怒ることによって優越感も味わえる。……(中略)……。 こうした優越感は、相手が大物であるほど味わえる。当然、政治家や芸能人は絶好のターゲットになる。(p.148-151)
ネットでの炎上に限らず、ネットでの過激な発言(右派の内輪だけで流通している本・雑誌などの言説も含む)一般にこれは当てはまるように思われる。こうした言説において、自分の欲する方向に話を持っていくことが最優先され、事実が置かれた文脈などは重視されないのは、何らかの不満があり、何でもいいから正当な理由をつけて攻撃することができればよいからであろう。
「誰でもいいから叩きたい」という欲望を抱くのは、日頃から鬱憤がたまっていて、そのはけ口を探さずにはいられないからだろう。……(中略)……。 こうした欲望が端的に表れたのが、先ほど取り上げたネット上の炎上、そしてそれに便乗する“便乗怒り”だが、最近問題になっている「カスタマーハラスメント」、いわゆる「カスハラ」の根底にも同様の欲望が潜んでいるように見える。 ……(中略)……。 こうした「カスハラ」が増えている背景には、デフレ経済が30年近くも続く状況で、顧客獲得のために“過剰”ともいえるサービスが当たり前になったことがあるように見える。また、SNSの普及によって誰でも悪評を容易に発信できるようになり、しかもそれがすぐに拡散することも大きいだろう。 だが、問題の核心は、店員を怒鳴りつけたり脅したりすることによって日頃の鬱憤を晴らそうとする客が少なくないことだと私は思う。なかには、商品やサービス、果ては店員の態度のあら探しをして、いちゃもんをつける客もいると聞く。この手の客は、日頃怒りたくても怒れないので、怒りの「置き換え」によって、その矛先を言い返せない弱い立場の店員に向けると考えられる。 矛先を向けられた店員が客の要求を受け入れ、謝罪すれば、客としては優越感を味わえる。日頃鬱屈しており、無力感にさいなまれている人ほど、「カスハラ」によって得られた優越感を忘れられないのか、繰り返すように見受けられる。(p.152-153)
日本社会に漂う不満感のようなものがカスハラなどにも表れる。その心理的メカニズムは「置き換え」によって説明可能である。カスハラの常習者がカスハラを繰り返すのは、それによって得られる優越感なども要因となっている。非常に納得できる説明。
なお、デフレが続く中、過剰サービスが当たり前になったという点を指摘しているのも興味深い。企業が価格支配力を失ったことが過剰なサービスによって顧客をつなぎとめようとした大きな要因ではないか。そして、それが社会にある程度定着したことについて、それを良いものとして評価しようとしたもの(負の側面は見えないようにしたもの)が「おもてなし」という言葉であろう。それが日本社会の特徴だと言われるようになったのは、日本がデフレで企業が価格支配力を失ったため、価格以外のサービスで差別化するしかなかったという無力さが表れているものだという点も認識しておく必要があるだろう。
複数の幸運が作用した結果うまくいっただけなのに、能力と努力のたまものと思い込む傾向は、個人だけでなく集団にも認められることがある。その一例として、経済評論家の加谷珪一氏は「戦後日本の経済成長は、日本人の不断の努力によって実現したものであり、必然の結果である」という思い込みを挙げている(加谷珪一 『縮小ニッポンの再興戦略』)。 ……(中略)……。 日本の高度成長をもたらした偶然の要素として、加谷氏は朝鮮戦争と中国の革命の二つを挙げている。 ……(中略)……。 しかも、朝鮮戦争の終結後も大躍進政策の失敗、さらには文化大革命によって経済が疲弊した。そのため、1970年代後半に改革開放路線がスタートするまで、日本にとって圧倒的に有利な状況が続くことになった。いわば中国の失敗による「ライバル不在」という状況に日本経済は助けられたわけだ(同書)。(p.192-193)
基本的に同意見である。さらに言えば、冷戦の西側陣営の最前線にいたことが日本が60年代前後に高度経済成長を果たした構造的な要因である。
自分が悪いと思わない人を前にして、一言でも謝らせたいと思ったことは誰にでもあるはずだ。私自身もある。だが、それは時間とエネルギーの浪費に終わることが少なくない。(p.198)
相手は暗点化などによって自分の非が存在しないことになっているのであり、防衛機制である暗点化を解除して事実を見させることは極めて難しい、といことのようだ。確かにそうかもしれない。
孤立していると、自分が悪いと思わない人に立ち向かううえでも不利である。(p.205)
自分の非を認めない人が、表面的にうまく振る舞って見方を作るのに長けている場合、非常に厄介である。
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