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アヴェスターにはこう書いている?
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高橋哲哉 『思考のフロンティア 歴史/修正主義』(その1)

 侵略や戦争犯罪の「罪」を負う人が「歴史修正主義者」になるのは、自分の「罪」から逃れたいだめだろう。だが、侵略や戦争犯罪に参加したことのない戦後世代の人が「歴史修正主義者」になるとき、彼らは、「本質主義的」(「実体論的」)国民観、民族観に立つあまり、直接の戦争責任あるいは「罪」と「戦後責任」とを混同していることが多い。彼らは「ドイツ人」や「日本人」の同一性あるいは連続性をあまりに強固に考えているので、直接の責任あるいは「罪」を負った先行世代から適切に距離をとることができず、先行世代の「罪」と自らの「戦後責任」とを区別することができない。ドイツ「第三帝国」や大日本帝国から距離をとることができず、あまりに強く自分をそれらの国家に「同一化(アイデンティファイ)」しているので、それらの国家の犯罪がただちに自分の犯罪であり、「子々孫々」にまでわたる「ドイツ人」や「日本人」の犯罪であると思ってしまう。この前提に立つかぎり、自分が無罪であると言えるためには、「第三帝国」や大日本帝国が無罪であったのでなければならなくなるだろう。
 彼らが知らないのは、自分の所属する国家がかつて犯した過ちを批判し、国家に「戦後責任」を取らせることによって自らの「戦後責任」を果たすことが、かつての国家の過ちと自分との連続性を断つゆえんだ、ということである。(p.12)



私もほぼ同じ意見である。

私から高橋氏の叙述に対しては上述のことを言う際に「国家」という用語を使わないで書くべきだ、という批判がある。(つまり、一言で言えば、「国家」が罪を犯したり、「国家」が責任を取るというよりは、政府が個人を動員して罪を犯させ、政府が責任を取るという方が意味が明確になるはずであり、「国家」という言葉を用いることによって生じるであろう無意味な混同を避けることができる。)

逆に、高橋氏の叙述から学べることは、「戦後責任」という概念を使うことでこの整理がやりやすくなる、ということであった。

ネトウヨや国粋主義的な研究者やジャーナリスト、政治家の言説は、概ね高橋が指摘する混同があると見て良いだろう。彼らに対してはまず次のように聞いてみるところから議論を始めると良いかもしれない。

ある「ニホンザル」が、ある「日本人」を殺したとする、その場合、すべての「ニホンザル」は罪や責任を負うのか?

集合的なカテゴリーと個々の主体との区別を行わせることができ、さらに謝罪や補償を行う場合の「罪」や「責任」が、政治的・法的なものであることをこれらを糸口として明らかにしてやればいい。まぁ、この程度の区別もつかぬアホと議論する気はないが、場合によっては闘争が必要なこともあろう。「ニホンザル」を使うアイディアは、それなりに使い勝手が良さそうなのでメモしておく。




 戦後世代の日本国民は、侵略戦争に参加していないので直接の戦争責任「罪」は負わないが、戦後日本国家に「戦後責任」を果たさせる政治的責任を――「戦後責任」として――負っている。国家の政治的主権者としてのこの責任は、法的に「国民」であるすべての人が原則として平等に負うものである。法的に「国民」であるかぎり、この責任から逃れることはできない。(p.13)



直接手を下した個人にのみ関わる戦争責任や罪直接には政府が果たすべき戦後責任との区別が語られている。そして、政府がそれを果たすようにする義務を主権者たる「国民」は負うわけだ。

主権という権利に対応する義務として、主権者は政府に戦後責任を果たさせなければならない、という構造がここでは明確になっている。




 もっとも、「ナショナリティ」が「善きもの」として現われる局面がまったくないとは言えないだろう。たとえば、追放され国籍を失って難民となった人が、「諸権利をもつ権利」(ハンナ・アーレント)としての「ナショナリティ」を希求する場合のように。安定した「ナショナリティ」をもつ者が、「ナショナリティ」なき自己を空想することはたやすいが、「ナショナリティ」なき自己を現実に生きることは難しい。けれども、「ナショナリティ」は、まさにそれをもつ者のみに「諸権利」を付与する排他的な特権である。「国民」とその他者、「国民」と非「国民」を区別=差別し、「われわれ国民」と「彼ら外国人」とを分割=分断する原理である。その起源には、「国家創設の暴力」(デリダ)としての「法措定暴力」(ベンヤミン)があり、その存続のために「法維持的暴力」(ベンヤミン)を必要とする。「ナショナリティ」はそれが「善きもの」として現われる場合でさえ、この構造的な「暴力」性を免れることはできない。(p.25-26)



「安定した「ナショナリティ」をもつ者が、「ナショナリティ」なき自己を空想することはたやすいが、「ナショナリティ」なき自己を現実に生きることは難しい」というくだりは、ポストコロニアリズムの初心者には釘を刺すべき点であろう。多少なりとも頭が切れる人間なら、あの思想を身につけることは容易なことだが、彼らの卓越した知性にも関わらず、そのパラダイムでは、いうなれば「真実の半面以上は見ることができない」ことには簡単に気づかない人が多いからである。

オートポイエーシスの立場から言えば、それは「観察者」が構成する理論でしかなく、システムの作動を捉え損ねているのである。すなわち、そこでは現実は、作動から半歩以上遅れて見られている。

大部分の人には意味のない記述になってしまったが、自分のための読書メモというのがこのブログの主な趣旨なので、これもそのまま残しておくことにしよう。




過去の歴史に「恥」や「罪責」の「感情」をもつこと自体が問題なのではない。それらの「感情」が、「戦後責任」の具体的実践につながることこそ肝要なのだ、と。(p.32)



その通りであろう。私の場合、旧日本軍が犯した罪に対して「恥」も「罪責」の感情も感じないが、それでも責任はあると感じる。問題はどのような感情を持つかではなく、何を言い、何をするかということであろう。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

まさにオートポイーシスの視点からすれば、社会システムはコントロールが効きませんので、各人にその担っていた人格に求められてよい以上の責任を求めるのは、それ自体不当なのですがね。高橋氏の見解そのものが、しょせん観察者の理論であることに気づいていますか?何より問題なのは、戦争に負けると道義的責任を負わねばならないという立論の根拠ですね。勝者も敗者も戦争をしたという点では同じなのに。
【2007/06/26 09:45】 URL | 山人 #QFk3YRjk [ 編集]

誤読の連続
無意味な書き込みは即削除するのだが、当面はさらしておこうと思う。

>まさにオートポイーシスの視点からすれば、社会システムはコントロールが効きませんので、各人にその担っていた人格に求められてよい以上の責任を求めるのは、それ自体不当なのですがね。

社会システムはコントロールが効かない
→この命題は偽である。創発があることと完全に無秩序であることとは同じではない。

「コントロールが効かないことに責任がない」という論旨の発言にも根拠がない。要するにこの人(山人)は、自分が決めたこと以外に責任をとりたくないというだけだろう。

なお、高橋哲哉の叙述の大部分は観察者の理論であると私は批判している。ただし、観察者が構成する理論は常に無意味だということを意味するわけではなく、また、観察者が構成する理論が絶対的な誤謬であるわけでもない。

> 何より問題なのは、戦争に負けると道義的責任を負わねばならないという立論の根拠ですね。

そんなことはどこにも言われていない。これは山人の思い込みによる誤読であろう。テクストは冷静に読み解かなければならない。反論する場合には尚更である。

戦争責任は勝利者にも敗者にも等しく存在する。高橋もこの著作の中で、韓国国籍保有者にはベトナムに対して戦後責任があると明示している。明らかにコメント主たる山人は、戦後責任が、道義的道徳的な概念ではなく、政治的および法的な行為についての概念であることを理解していない。私の理解では、それは主権という権利に伴って生じる責任なのである。

このコメントに限らず、ブログのコメント欄に反論する者はテクストをまともに読めていないことがほとんどである。
【2007/06/26 20:36】 URL | Zarathustra #/7LGe6zc [ 編集]


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