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アヴェスターにはこう書いている?
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ウィリアム・H・マクニール 『世界史』(その1)

一定数の古典(その中には、もちろん孔子の言葉を集めた『論語』のような作品が含まれていた)を集中的に研究することを多くの人々が実行したので、後世の中国人は共通の体験の核をお互いの間に形成することになった。中国文明の接合剤となった基本的態度や価値が、ここから自然に生まれたのである。(p.141)



これは教育や教養一般に当てはまるパターンであろう。これとの対比で興味深いのは、ヨーロッパにおいていわゆる「近代」といわれる時代の思想が「古典」とされてきたことも、「ヨーロッパ」というよりもラテン世界の知識階層に「共通の体験の核」のようなものを与えた面がありそうだ、ということ。

デカルト以降のことを想定して書いているのだが、ちょうどこのあたりから、ラテン語ではなくそれぞれの土地の言葉でテクストが残される傾向が強まってきたことは、ラテン世界の知識階層に緩やかな一体感をもたらすと共に、ナショナリズムへと繋がっていく意識を形成することにも繋がった(原因だとまでは言わないとしても)可能性がある。もちろん、文字とは縁の少ない社会層への広がりについては、印刷術や出版資本主義が結びつく必要があったのは確かだろう。

「古典」が「共通の知識」を構成することで、共同体の知識階層を結び付けやすくするという知見は重要だろう。宗教における聖典も同じである。実際、デカルトやロック、ルソー、カントのような著作家たちが古典とされてきたことも、知識階層が教会や修道院の中にいた時代から、その外へと移行してきた状況と符合している。

私も「古典」とされるさまざまな著作を読んできた。しかし、これを共有する社会層との接点はそれほど多くないのはある意味、悲劇的かもしれない。




だが、真の意味で西欧世界が他の主要な文明に対する圧倒的な優勢を確立するのは、近々、1850年以降のことにすぎない。(p.157)



多くの研究者の主張と一致する。しかし、述べられる歴史観全体がこのような見方に符合するところまで「ヨーロッパ中心主義」から抜け出している歴史家や社会科学者(それ以外の人も)は、1970年以前から大いに活躍してきたような人と中にはほとんどいない。

1974年のウォーラーステイン(『近代世界システム』)も不十分だと批判されてきた。マクニールについて言えば、例えば、古代(紀元前500年以前)について彼は中東が第一位の文明だったとするが、これはメソポタミアやシリア・イラク周辺の文明がギリシアやローマを通してヨーロッパに継承されたという見方を暗に含んでおり、その意味でユーロセントリズムの古代文明への投影ということができることなどは指摘できるだろう。




かえって、モンゴルの支配への反発から、次の明王朝(1368-1644年)の時代には、古い正統的な中国文化の尊重が、一段と協調されることになったとさえ言えるのである。(p.286-287)



実際にこのような解釈で妥当かどうかは別としても、分かりやすい対比ではある。




だが、ほぼ1000年を境として、ビザンティンの芸術家と著作家は、一段の熱意をもって異教時代の過去の栄光を想起するようになった。古典を模倣した芸術と、古代のギリシャ人が確立したあらゆる様式の文学作品が、成功不成功を問わず盛んに産み出された。(p.302)



ビザンティンは私の知識が弱い分野だが、11世紀頃に「古典古代」のルネサンスがあったというのは興味深い。アッバース朝の8~9世紀に翻訳運動があり、10世紀にはギリシアやローマの学問の水準を超えたわけだが、このビザンティンでの出来事はちょうどそれに続く次期であり、さらにイタリアやイベリア半島の12世紀ルネサンスの間の時期だからである。イタリアへの影響は疑うべくもないが、それ以前のイスラーム世界との関連については大変興味があるところだ。




 このようにして、役人が商人や海員の個人的利益を無視できたという事実は、経済社会問題における中国官僚の力を示している。この力を根本的に支えていたのは、多くの役人を生み出し、儒教がその利益を擁護しつづけてきた地主・紳士階級が、新しい商業の富がひじょうな勢いで増大していた時代ですら、中国社会全体の中で支配力を失わなかった事実である。これが可能だったのは、十一および十二世紀ですら、農業の富の増大が、産業、商業活動と同じくらい、あるいはそれ以上に早かったからである。この農業の発展の秘密は、1000年ごろ、新しい品種の稲が普及したことにある。(p.305)



マクニールの技術決定論と生産力主義の見方を端的に示している箇所であると同時に、それらの繋がりも見事に示している箇所。

新種の稲(技術→生産力)→農業の富増大(生産力→富)→地主・紳士階級の支配力(富→権力)→中国官僚の力 という因果関係が描かれていることがわかる。




一見正反対に見えるものが、多くの共通点を分かち合う、ということなのだ。(p.440)



一般的な格言としても使える。

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