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アヴェスターにはこう書いている?
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フェルナン・ブローデル 『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』(その4)
『第二巻 交換のはたらき』(邦訳第二分冊)より

われわれの役者たちに、彼らの優越の源であり、彼らを決定的に特徴づける計算、理性、論理、通常の感情からの脱却など、そのすべてが、儲けという抑制することのできない誘惑に奉仕するような一つの「精神」を認めるべきだろうか。・・・(中略)・・・。資本家は、自分のうちに、こうしたすべての美点とすべての神の恵みを備えうるのだろうか。われわれの説明において、選択すること、選択できることとは、鷹のように鋭い眼力でもって正しい方向と最良の解答を見出すことではない。忘れないでおこう。われわれの役者は、社会生活の一つの階に位置していて、多くの場合、同輩の解決法、助言、分別を目の前に持っているのである。彼は彼らを通して判断する。彼の有効性は、彼自身によってと同じくらい、彼の占めている地点によって決まるのである。交換の最重要な流れと決定のなされる中心の合流点にいるか、それとも辺境にいるかによって・・・(中略)・・・十七世紀にオランダ人として生まれ、Oost Indische Compagnie(東インド会社)という巨大な機構の主人たちの間に座を占めるという運命を持ったとき、天才的である必要があろうか。(p.138)



経済的に優位な位置にある個人には何らかの資質があるからであるという古い議論に対するブローデルからの反論の一部である。

近年の日本で言えば、「格差」が問題と関連する。しばしば支配層や財界人にとって都合の良い考え方として、努力した人間が報われるようにするため、報酬(給与)を能力や努力に見合うように配分するとか、生活が苦しい人は努力が足りないだけだという見方は、上で批判されている精神論の亜流ないし変形である。ブローデルの主張はそれとは異なっている。つまり、東インド会社の主人たちの間に座を占めるという運命を持ったとき、天才的である必要があろうか、と。

格差問題に関する日本における実証的な研究もこうしたブローデルの主張の方が妥当であることを裏付けている。この件に関しては、私のメインブログの記事では「「格差」問題を語る際の4つの注意」という記事にまとめておいた。




 資本主義を一つの心性の具現とする「観念的」・一義的な解釈は、ヴェルナー・ゾンバルトとマックス・ウェーバーが、マルクスの思想から抜け出すために、他に思いつかないので、通った出口であった。まったく公正に言って、われわれは彼らについて行く義務はないのである。・・・(中略)・・・。資本主義が、ただ一つの局限された起源から出たということはありえない。(p.139-140)



まったく妥当なゾンバルト=ウェーバー批判であり、私もほぼ同意見である。

ただ、ウェーバーも「ただ一つの局限された起源から出た」ことは否定しており、様々な要素のなかで宗教がどれだけ役割を果たしたかを明らかにすることが課題だと言っている。そして『倫理』論文(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』)についても、その因果関係を一面的に上昇させた理念型を描出したのであって、検証したとは言えない。

とはいえ、ウェーバーの信じるところでは、宗教がかなりの役割を果たしたと考えていたようなので、その信念(仮説)に対しては、十分な批判であるといえる。

なお、ウェーバー・テーゼに対するブローデルによる批判は、より本格的には、本訳書のp.357-360でも行われている。(→今後の研究のためのメモ)




 とくに、われわれの眼には決定的と見える、資本主義経済の間の対立を、具体的に示すであろうような線を引くことは簡単ではない。経済は、われわれがその語をその意味で用いたいと思う意味では、「透明さ」と「規則性」の世界であって、そこでは各人が、共通の経験に教えられて、前もって交換の過程がどのように展開するかを知ることができる。・・・(中略)・・・。要するに、たいていは古来の、無数の通商路であって、誰でもその道筋・暦・高低差を前もって知っている――したがって、正常に競争に対して開かれているのである。もし、この商品が何らかの理由により、投機家の眼に興味を呼び起こすと、すべてが複雑になるのは事実である。その時、それは倉庫にストックされ、ついで、たいていは遠隔地へ多量に再分配される。・・・(中略)・・・。その時以後それは、特権的なゲームに属し、そこでは大商人のみが発言権をもち、それをきわめて多様な場所、飢饉のために小麦の価格が購入価値とはまったく比較にならないほど上昇した所、また、それが渇望されている商品と交換できる所へと送り出すであろう。・・・(中略)・・・。資本主義の大がかりな勝負の場は、習慣的でないもの、すなわち規格外のものに、あるいは何ヶ月もの、さらには何年もの時間のかかる遠隔地との結合にあるのである。(p.210-211)



比較的簡潔にブローデルの「市場(経済)」と「資本主義」の対比が描かれている箇所なので引用しておいた。ネットワーク理論で言えば、前者はランダムネットワークの一種で、後者はスケールフリーネットワークの一種になるのではなかろうか。




 たとえば啓蒙の世紀のすべての革命思想は、遊んで暮している貴族階級の特権に対して向けられ、そして進歩の名の下に活動的人口――そのなかには商人、マニュファクチャー主、進歩的土地保有者が含まれる――を擁護する。この攻撃において、資本の特権はいわば頬被りされている。(p.275)



納得。18世紀の啓蒙思想がどの社会層の立場に立つ思想だったのかがよくわかる。このように書かれると、(恐らくはやや単純化されているために)16世紀のルターが「ドイツの世俗諸侯」のイデオローグだったことよりもずっと分かりやすく、立場が表示されることになる。その意味では、19世紀のマルクスやそのエピゴーネンたちが「ブルジョワ思想」といって批判したのも頷けるところがある。

ただ、エピゴーネンたちは、20世紀の思想に対しても同じレッテルで攻撃することが多々あり、それはルターに対して「ブルジョワ思想」と非難するのに等しい部分がある。部分的に当たっていても、的確さに欠ける。

いずれにせよ、近々、啓蒙思想とされる哲学を少し深めようと思っている――意外と「見どころ」がある思想なのではないかと考えはじめている――ところなので、ブローデルからは良いタイミングで良いコメントをいただけたと思っている。

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