FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

丸山俊一、NHK「欲望の時代の哲学」制作班  『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ』

したがって、他者の自由意志は、私たちが私たち自身であるために必要なものであると同時に、私たちが持つ自分自身のイメージを損ねる可能性があるがゆえに、私たちが恐れるものでもあるのです。
 これが、社会的な複雑性に対する一つの反応であり、ポピュリズムの先導のもとに、まさにいま、起こりつつあることです。自由民主主義への攻撃は、社会性そのものを破壊しようとする試みなのです。(p.34)


他者の自由意志を恐れるということが、排外主義やレイシズムなどの要因となり、それが多くの人が陥りやすいものであるが故にポピュリストたちによっては動員しやすい環境となっている。

この原理は、私からすると、なぜ専制や独裁などがほとんどの人にとって悪なのか、ということの原因でもあると思う。つまり、支配する側に常にいる人にとって、多くの人びとの自由意志は、支配者の自己イメージを損ねる可能性があるが故に、恐れるものでもある。そうだとすれば、支配者は人々の自由意志が自分に向けられないように情報を操作したり、(まさに香港における「国家安全法」がそうであるように)「不法を法とする」ことで統治しようとする。

第二次安倍政権は、就任以来ずっと情報操作することによって自身の支持を得てきた(正確に言えば、人々が不支持にならないように仕向けてきた)。それができてきたのは、安倍(やその周辺)に実力があるからではなく、そのための環境が整えられてしまっていたということが大きな要因である。90年代から00年代前半までの政治改革による内閣への権力集中がそれであり、安倍政権がそこに内閣人事局の設置によって、それを完成させたと言ってよいと思う。官僚がすべて首相の言いなりになり、不都合な情報を出さないようになる。あとは、マスメディアを「各個撃破」戦術によって黙らせてしまえば、誰も大っぴらに批判する者はいなくなる。よほど政治に関心がある人以外は、実際に行われていることを感知できないから、不支持は広がらない。それによって政権を維持する。コロナ発生後の対応のまずさは、政権の本来の実力を示しているものであり、最近、首相が国会にもメディアにも出て来ないことは、国民の関心が高い問題であるため、今までのような誤魔化しが通用しにくいことを分かっているためである。まともに対応する実力もないし、今までのように誤魔化すこともできない。これが現在の安倍政権の立ち位置である。

今の政府の対応や姿勢を見ると、今後、コロナの感染が国内で広がることは間違いない。数か月後にはアメリカやイタリアのようになってもおかしくない(市中感染が広がり、医療機関での対応も追いつかなくなる)と私は見ているが、そうなった場合の責任は内閣にあり、その際には(今まで安倍がやって来たような)「責任を痛感する」とか「責任は私にある」と【言うだけ】で済ますことを許すべきではない。有権者としては、そうなる前に政権を変えて対応を変えるのが望ましい。



 フェイスブックの本質、それはあなたが自己イメージを表現できるプラットフォームを提供することです。……(中略)……。
 「好き」/「嫌い」のようなパターン分けこそが、フェイスブックなのです。なぜなら、ひとたびあなたが何かを好きになると、あなたは自動的にその好きな何かを投稿します。実際、嫌いなことは投稿しません。自分自身の好みは投稿しますが、ただそうしているだけなので、あなたは意識していません。あなたは自分が何をしているかに、気がついてすらいないのです。プラットフォームはデータを登録するだけだからといって、中立であるわけではないのです。(p.35-37)


フェイスブックはこのデータによって我々の行為を予測することができ、それが売られることが問題ということだな。



こうした利害関心がすべて一体となって、私たちは現実には何も知ることができないという、ポストモダンな物語を生み出しています。現実を知る能力や自分自身の合理性に疑問を投げかけるアメリカの大衆科学小説、あるいは、私たちは合理的ではないと主張する行動経済学などがいい例です。(p.154)


ポストモダンの物語が生み出されているのはそうだとしても、行動経済学が人間を合理的ではないと主張しているかというと、そこは疑問というか誤解ではないか。従来の荒唐無稽な「合理的経済人」という現実と合わない仮定が現実に合っていないということを実際のデータから裏づけつつ、どのような規則性(従来の仮定と違うもの)があるかということを見いだそうとしているのだから、その点で行動経済学も合理的な志向を十分に持っている。また、行動経済学は現実を知る能力に疑いを持っているわけでもないだろう。



 科学的なものの見方のみが真実であるとする「自然主義」に対しての実に痛烈な批判。そして、彼を育んだドイツという国の歴史に向き合うとき、避けては通れないナチズム、すなわちファシズムに対する最大級の警戒。さらに、今回あらためて随所で言及された「ドイツ観念論」への強い信頼と、その学問的系譜に自らを位置づけることで思索を深めようとする覚悟。この三つの重い礎があってこそ、彼の思考は軽やかになり、どんなボールが来てもコースによって打ち分ける打者のように饒舌な語りとなって言葉へと結晶することを、まずは確認しておきたい。(p.200-201)


ガブリエルの思想の特徴を簡潔にまとめているように思われる。

上記の行動経済学に対する批判(?)もガブリエルの反自然主義の感覚から来ているように思われる。ただ、自然科学的な方法を使って物事を認識することと、それでなければ事実は認識できないとすることとは全く違うことである。それこそ自然科学的な方法によって物事を認識することも一つの「意味の場」における出来事であるとすれば、難なくガブリエルの思想の枠内に収まるのではないか。実際彼は他の学問はそのように扱っているように思われる。だとすれば、この一つメタなレベルにある「意味の場」の理論の枠内で考える限り、自然科学的な方法に基づく認識も批判されるべきものにはならないように思われる。


スポンサーサイト




この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1471-c1fa44f0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)