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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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片倉佳史 『台北・歴史建築探訪 日本が遺した建築遺産を歩く』
国立台湾博物館土銀展示館(旧日本勧業銀行台北支店)

この建物は1989年、老朽化を理由に、一度は建て替えが決まったが、熱心な保存運動が起こり、取り壊しを免れた。(p.46)


同様の保存運動がかなりの数の建築を守ってきたことが、本書の叙述だけからでも分かる。



撫臺街洋樓

 この建物が建てられる前年、台北は未曽有の暴風雨に見舞われ、家並みの大半が崩壊するという惨事となった。これを機に大がかりな都市計画が練られ、町並みは一新されたが、この建物もその際に立てられた1棟である。(p.56)


この建物は1910年(明治43年)竣工。これより古い建物は残るのが難しい状況。ある意味、台北に残っている建築のスタイルが割と共通している感じがするのも、こうした事情が反映している面もあるのかもしれない。



台湾師範教育館(旧尾辻國吉邸宅)

 三線道路は旧台北城の城壁跡地を用いたもので、約40メートルという道幅を誇った道路である。後藤は「パリのシャンゼリゼ通りのように」と指示したと伝えられ、実用性のみならず、都市景観を意識した道路となった。(p.99)


三線道路のエピソードとしてメモしておく。



野草居食屋(旧石井稔邸)

 こういった家屋は戦後、国民党政府によって外省人官吏などに分配されたが、老朽化が進んだため、所有権が台北市などに移されたケースが少なくない。そのため、こういった「再生空間」は業者が台北市から委託される形で運営していることが多い。(p.115)


最初のコメントで述べたような保存運動という市民側の熱量と、台北市に所有が移ったこと(台北市がそれを受け入れたことを含む)とが、00年代以降のリノベーションの増加という動きにつながっていることが、本書から読み取れたように思う。

市が所有し、運営を民間に委託するというやり方は、日本でやると多くが経営的に失敗しているように思うが、台北の場合はどうなのだろうか?この辺りは非常に気になる点である。



華山1914文化創意産業園区(旧台湾総督府専売局台北第一工場)

総督府が遺した文献によれば、1910年代に入り、台湾における酒類の消費量は急増したという。これを受け、1914(大正3)年に最初の酒造工場が設けられた。(p.178)


経済力がそれだけ向上してきたということだろうが、これは日本本土と概ね同じような経済的な動きであるように思われる。本書でこれの前に紹介されている高砂ビールが1919年に創立されたのも、こうした背景の下でのことだっただろう。



二條通・緑島小夜曲

日本統治時代初期、日本人は主に台北城内側の「城内」地区を居住地としていたが、1920年代後半から都市の規模が成長し、市街地が拡大していった。(p.215)


この都市の拡大は、一つ前のコメントで指摘した経済力の向上、市民の生活文化水準の向上と繋がった現象であろう。



士林公有市場(旧公設士林庄市場)

 士林夜市は慈誠宮という廟と深い結びつきを持つ。つまり、廟を訪れる参拝客を相手に出店が並び、それが公設市場と結びついて生まれたのが士林夜市なのである。(p.279)


古い市場と宗教施設との関係は世界中で見られるものであり、士林夜市もそうだったのか、という感じ。台湾の他の夜市はどのような由来なのだろう。同様のパターンは多いのだろうか?また、これとは違うパターンは見られるのだろうか?

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