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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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栖来ひかり 『時をかける台湾Y字路 記憶のワンダーランドへようこそ』

水路は地下にもぐりみえなくなってしまったけれど、歩いていると水路の名残りをあちらこちらにみつけることができ、過去から現在にかけて絶えず豊かに台北をうるおしつづけてきた水の存在を感じる。台北じゅうを血管のようにめぐっている水路について知るたびに、台北のまちとじぶんの身体が一体化していくような、親密な感覚をおぼえるのである。(p.45)


この感覚は、多くの町に共通に見出せそうに思う。水路がどこにあったかという観点をもって自分のフィールドとする街を見直してみたい。



 それでも、台湾のまちを歩いているときSさんに再会したような気持ちになることがある。たとえば、タイヤとサドルのない自転車が置き石がわりに家のまえに立てかけられているのをみたとき。突然歩道をさえぎるように出現するガジュマルの樹に遭遇したとき。あるいは、Y字路になった一般道(つまり公共の空間)の真ん中に、椅子とテーブルがオアシスみたいに置かれていたとき。こうした辺界は、かぎりなく優しくゆるやかだ。台湾の都市空間に親しみと好ましさを感じる日本人は少なくないと思うが、そのヒントはもしかしたら、台湾のまちの辺界に隠されているのかもしれない。(p.80-81)


なるほど。



 実際マンゴーかき氷で名高い台湾のかき氷だって、じつは台湾と日本のハイブリッドだ。もともと中華文化では、小豆や緑豆などいろんな豆を少し甘めに煮てぜんざいのように食べていた。一方、氷を細かく削って食べるのは日本では平安時代から記録があり、これが日本時代に台湾へと持ちこまれ、両者が合体して現在の「台湾風かき氷」ができあがった。さらにマンゴーなどのフルーツが載るようになったのはわりと最近のことである。
 台湾のグルメエッセイストとして知られる作家・焦桐(ジャオトン)によると、大きな鉄板で肉や野菜を炒めるモンゴル焼肉もモンゴルにはなく、福州麺も中国福州にはない。ほかにも鹹豆漿(シェントウジャン)(だしと塩気の効いた豆乳スープ)や牛肉麺(ニュウロウミェン)など、実はどれも戦後に台湾で発明されたものだが、いまや立派な台湾料理として数えらえる。(p.90)


ここで挙げられているもの一つ一つの由来について、もっと詳しく知りたくなる。特に気になるものとしては、牛肉麺は大陸でもよく見かけたが、台湾から入っていったということか?というあたりか。



 戦後になり日本時代の町名は全面的に改定される。
 命名のしかたは、台北を4つのエリアに分け、それぞれに中国大陸の地名を同じ位置関係のまま縮小して当てはめるという、上海からきた建築士・鄭定邦(ディンディンバン)の編み出した方法で、これは上海でも採用されている。台湾で生まれた子供たちが、中国大陸に帰っても迷うことのないように。共産党政権を倒して祖国に戻るという反攻大陸政策をとっていた当時の中華民国政府の、「いつかぜったいに帰る」という宿願がまちの名前にまで感じられ、興味ぶかい。(p.91)


中国大陸にある街の地名が付いているところは、この命名法でつけられた、ということか?注意して見てみよう。



Y字路発生のための三大要素である鉄道・水路・幹線のすべてを備えたこの周辺を歩けば、たくさんのY字路をみつけることができる。(p.127)


Y字路発生の三大要素は参考になった。街歩きをする時、これに留意しながら観察してみたい。



 日本人が台湾にきて感心することのひとつに、日本時代の建築をみごとに現代社会のなかで生かしていることがあるだろう。しかしながら「台湾の人は日本時代を懐かしんで、建築を守ってくれてありがたい」という日本人の声を聞くたびに、それは思い違いではないか、と口に出かかった言葉を飲み込む。台湾の複雑な歴史や人々の思いを知るほどに、彼らが守ろうとしているのは日本時代の建物ではなく、台湾という土地がこれまで歩んできた道のりであるのが理解できるからだ。原住民族が暮らしていたこの台湾に、スペイン人やオランダ人がきて、漢民族がきて、日本人がきて、多くのものを奪い、また、もたらした上で現在の台湾になっているという歴史の脈絡。戦後の国民党教育のなかで一方的に「中華民国」としての偏った歴史を教え込まれていた彼らにとって、日本時代の建築物を大切に残していくこともまた、台湾人としてのアイデンティティを獲得していくプロセスなのだ。みずからの在りかたを真摯に追い求める彼ら“文化テロリスト”のすがたには、いつも心揺さぶられつづけている。(p.134-135)


全く同意見である。私としては、台湾という地を理解する上でこの点は非常に重要だ――最重要かも――と思っている。



わたしたちが今、台湾で目にできる総督府や博物館など日本時代の内地に負けないほどの壮麗な建築物が、日本によってアヘン漬けとなった植民地下の人々の命と引き換えられた財源でつくられたかもしれぬ暗い歴史を、「近代化に貢献した」という耳あたりのよい言葉で覆い隠してはならない。(p.182)


この点も重要な指摘。日本による台湾におけるアヘン政策の評価は難しい。漸禁政策を採ったことは、急激に変えるのと比べればヤミでの取引などを抑制する効果はあったように思われ、最終的にかなり減らすことが出来たという意味では間違っているとは言えなかったように思われるが、その意図の一つに政府の財源としようとしたという面があったことなどには、確かに違和感を禁じ得ない。とは言え、その財源の使い道が結果として台湾に住む人々の福利厚生に資したのであれば、必ずしも悪いとまでは言えないようにも思われる(ヴェーバーの責任倫理)が、果たしてその結果はどうだったのか。ただ、この点についてはっきりと評価するだけの根拠を私は持ち合わせていない。



大稲埕や萬華で成熟したカフェー文化は台湾青年知識人たちのサロンの土壌ともなり、社会運動家・蔣渭水らを生み、やがて台湾人のための権利・文化発展を模索する民族運動に連なっていった。(p.190)


現代では同じような機能をSNSなどが果たしつつある面があるが、SNSは民主主義的ではないツールであるということが制約となっている面もある。SNSという利用しやすい資源が、こうした制約を負っていることは、民主的な運動を進めていくに当たっては障害にさえなっている面があるのではないか。



水を大量に使う銭湯やクリーニング店は暗渠との親密な関係をもつ「暗渠サイン」である。(p.194)


言われてみれば、という感じがする。



はじめは師の画風の模写から油絵を学んだ日本人画家たちは、同じような風景の構図やタッチを用いながらも、モチーフを日本的なものに変えることで、西洋から換骨奪胎された「日本人」の油絵をめざすようになる。……(中略)……。
 こうして、西洋から輸入された筆法や構図のなかに日本的なモチーフをどのように入れ込んでいくか、そのモチーフと自己との距離が日本における近代絵画のなかの大きなテーマとなったが、それは「日本的とはなにか」を再規定するナショナルな試みでもあった。またそこには、西欧に求められているエキゾチックでオリエンタルな需要に応えたいという、健気なサービス精神もあったかもしれない。
 同じことは、戦前の台湾美術界でも起こった。(p.202-203)


当時の台湾の絵画を見た際に感じたことが、この周辺の叙述を読んで少し形になってきたように思う。ただ、そうした経験をしてから年月がかなり経ってしまったので、次の機会を待つことにしよう。



 50年もの長きにわたって台湾を統治し、「台展」といった大祭典をぶちあげながら、台湾総督府は台湾に美術館、そして美術学校はおろか研究所さえつくることはなかった。美術に対して意識を深める場所がないから、パトロンやマーケットの育ちようもない。台湾人の画家たちはせっかく東京で学んでも、内地ばかりか台湾においても教職としての勤め先はなかった。(p.206-208)


日本の台湾統治の性格がどのようなものだったかを浮き彫りにする指摘であり、参考になる。



じつは小南門、漳州人系の板橋林家と敵対する泉州人系の勢力が強い艋舺(バンカ)を避けて、直に台北城内へ入れるようにと、板橋林家みずから資金をだして建てた門である。(p.224)


そうだったのか。なぜ東西南北の門があるのに、さらにもう一つ門があったのか謎が解けた気がする。

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