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アヴェスターにはこう書いている?
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太田雄三 『クラークの一年 札幌農学校初代教頭の日本体験』(その2)

しかし、これらの文化施設にしろ、新宿試験場や下総牧羊場にしろ、この期間にクラーク達の見た多くのものは上からの近代化の一環として政府が採算を度外視してやっているもので、必ずしも日本全体の進歩の指標として使えるものでもなかったし、また見かけほどうまくいっているわけでもなかった。(p.73)


クラークたちが東京で様々な産業施設を見学し、クラークたちは日本が「進歩」していると感じたと推察されるが、彼らが感じたであろうほどうまくいっているわけではなかったという指摘。

短期的な採算は度外視しても、導入してみていろいろと試していくことによって学習していこうという中長期的な発想を当時の政府は持っていたのだろうか?この辺りは気になるところ。



私の健康は申し分なく、私の仕事はたくさんありますが、私の能力以上ではなく、私の雇用者は気前よく、かつ私を高く評価してくれている、そして私のこれまでになしとげた所は私自身にも満足がいくし、私の知るかぎりでは、〔日本〕政府をも満足させているという状態です。私は、きっと、売り買い、雇い人の雇用解雇、建築改修から、自分の公印を使って会計から金を引き出すことに至るまで、日本人の役人の監督を全然受けずに行なう全権を付して、貴重な財産の管理を一任された最初の外国人だろうと思います。(p.125)


クラークが日本での仕事に満足していることを表明する発言は多いが、当時のお雇い外国人で、ここまでの裁量を持たされた事例というのは例外的なものであったことは押さえておきたい。クラークが来日中に西南戦争が起こっているが、その前後で政府の財政事情も大きく違っていたことや北海道という中央からは遠い辺境の地であったために実験的な試みが行いやすかったことなど、様々な条件が重なってこのような例外的な状況が形成された。黒田が大きな権力を持ち、黒田とクラークは馬が合ったというのもよく言われるが、そうした個人的な条件だけではなかったことを押さえるのは重要と思われる。



私達の石狩川を上る旅行中に私は黒田長官と話して、彼が〔聖書を教えることに〕反対するのはキリスト教自体に敵意を持っているためでは全然なく、ただ、英国国教とか、フランスカトリック教、ロシア正教やギリシャ正教といった国家〔外国〕と結びついた宗教を恐れるためだと分りました。(p.134)


ある意味、江戸時代の初期にいわゆる「鎖国」が行われた頃から、日本の政府(幕府)のキリスト教に対する警戒の源泉は変わっていないのかも知れない。いずれにせよ、キリスト教宣教の政治的な意図を正しく捉えており、西洋列強からの干渉に対する警戒は、当時の国際情勢を踏まえれば必要な構えだったということまでは言えるように思う。



これを見ても、クラークの信仰についての正しい理解は非常に信仰に熱心な男が日本に行って伝道を行ったというより、ごく普通の、名目的なクリスチャンとたいして違わなかった平信徒が思いがけずに始めた日本での伝道活動の成功から信仰熱心になって本国に戻ってきたということであるようだ。(p.242)


クラークの信仰に関するこの見方はなるほどと思わされたところ。クラークは日本において学生たちに道徳的な模範を示そうと努力した一面があると私は見ており、そのことが自身の信仰の熱量を上げることに繋がったように思われる。多くの学生が入信して彼についてきたことに対して、自分たち西洋人の優越性を見せたかったというような思いもあったのかもしれない、と想像する。



この講演を通じて日本の農業に対する高い評価を知るとき、私達が疑問に思うことの一つはクラークが日本の伝統的農業をそのように高く評価しながら、札幌農学校での初期の農業教育が、

 例えば作物でも、日本には何等の関係のない外国のものなどは教わっても、日本に最も必要な米作などのことは少しも聞かされたことがなかった。(南鷹次郎先生伝記編纂委員会編『南鷹次郎』、1958年)


と二期生の南鷹次郎がいったような、日本の実情に合わない欧米一辺倒の、南の言葉で言えば、「妙な教育」にとどまったことである。エドウィン・ダンも彼の「日本における半世紀の回想」(高倉新一郎編『エドウィン・ダン――日本における半世紀の回想――』、札幌、エドウィン・ダン顕彰会、1962年、所収)の中でクラークがマサチューセッツ農学校でのやり方を「そのまま札幌に移すつもりで来て、その通り実行した」ことを批判して、「日本とアメリカでは農業のやり方は全く異なっているので、肥料の価値とその施用ということを唯一の例外として、その他のことは、アメリカの大学でやっていることをそのまま持ってきても何等の結果も期待できない。」(同書、90-91ページ)と言っている。(p.256-257)


日本の農業を評価していても、結局はアメリカが一番と思っていたということが大きいということではないか?つまり、クラークが日本の農業を評価したとしても、「思っていたよりすごい」という評価だったということではないか。

また、実際、数カ月しか教育期間がない中で、十分な知識を持っていない日本の農業のやり方を適切にアレンジして教えるというのはかなり難易度が高かったとも想像される。実際、本州の農業と北海道とでは気候もかなり違うので、本州で見たことがそのまま北海道では役に立たないという面もある。(ダンは長期にわたって北海道にいたので、その立場からクラークに対して上記の批判をするのは理解できるところであり、妥当な批判ではあるだろうが。)

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