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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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出口治明 『グローバル時代の必須教養 「都市」の世界史』(その1)

 二世紀頃から地球は寒くなり始めました。そのためにユーラシア大陸の北方に広がる草原地帯では、多くの部族が南に移動し始めました。北の部族から順に南に移動してくるので、北から南へと部族移動の玉突き現象が始まり、膨大な部族の大移動が起こりました。
 この大移動は南下して天山山脈にぶつかります。ここで東西に分れて、東に向かった集団は中国において、五胡十六国と呼ばれる諸国家の興亡する時代をもたらします。西に向かった集団が、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」であると、教科書に出ていました。しかし今日では、ゲルマン民族と分類されていた集団の中で共通項が見出せないこともあって、「諸部族の大移動」と呼ぶ学者が増えています。(p.23)


地球の気温の変化が様々な歴史現象の背後で構造的な要因として作用していたことが、本書ではしばしば言及される。これは比較的新しい歴史学の考え方だが、私もこうした考え方についてはもう少し勉強してみたいと思う。場合によっては、かなりの説得力を持つ説明がされることがあるし、バラバラのものと思われていた別々の現象(ここの例では諸部族の大移動と五胡十六国)が、実は同じ背景因が作用して生じたものだと理解できる点が面白い。



 地球は十世紀後半から暖かくなり始めました。そのため食糧が増産され、人口も増加しました。ドイツやフランスでは、子どもが増えた結果、土地が不足したり、人々が職にあぶれるようになりました。要するに、ユースバルジ(若年層の膨張)が生じたのです。(p.37)


このことが十字軍の派遣へと繋がっていく。11-12世紀頃からヨーロッパが力をつけ始めたことと関係が深そうであり、建築のロマネスク様式や十二世紀ルネサンスなどとも関係があると思われる。



 16世紀前半のヨーロッパでは、フランス王のフランソワ一世とドイツ・スペイン王ハプスブルク家のカール五世が、全面対決していました。ハプスブルク家の本貫の地はオーストリアです。したがってウィーンを狙っているスレイマン一世は、フランソワ一世からみれば敵の敵なので味方、ということになります。そこで両国は同盟を結びました。時に1536年。
 こうして両国は協力関係に入りましたが、当時の国力をみるとオスマン朝が圧倒的に上です。そこでスレイマン一世は、彼からみれば貧しい国に過ぎないフランスに、カピチュレーションと呼ばれる外交上の特権を与えました。帝国内であってもフランス人の裁判はフランス人にまかせる領事裁判権、帝国内での通商や居住の自由、そして関税もフランスに任せる通商特権などです。スレイマン一世が強国の君主として、小国に恩恵として与えた最恵国待遇でした。やがて、このことを聞き知ったイングランドやネーデルランドなども、この最恵国待遇を求めました。「貧しき我が国にもどうぞお恵みを」というわけです。
 オスマン朝は大国らしく、鷹揚にこの要求を認めました。そして、この条約にたいへん旨みがあることを知った西欧列強は、カピチュレーションの内容を世界に広げていきます。日本が幕末の頃に各国と結んだ不平等条約も、その一例でした。(p.42-44)


なるほど。欧米諸国は最初は弱者として恩恵を被る形でカピチュレーションを与えられていたが、時代の変遷とともに経済力や軍事力を高めていき、他国よりも強い経済力・軍事力を得た後には、形式的にはカピチュレーションと同じ権利を自分たちより弱い国々に押しつけていったということか。興味深い。



人が旅をするときは、東西に移動するほうが南北移動より楽です。気候の変化が少ないからです。東西に広がるユーラシアの大草原地帯が民族移動の大動脈(草原の道)になったのも、同様の理由からでした。(p.62)


東西移動の方が南北移動より楽だというのはその通り。札幌の雪まつりに台湾の友人が子連れで来たとき、衣服が濡れると体温を奪われるので、北国の人間は自然と雪で衣服が濡れないように気を遣うものだが、そうした「北国の生活の知恵」を十分に体得していない彼らの服装や防寒装備の貧弱さと、そのことにあまり気にせずにはしゃいで、びしょ濡れになっていたことが想起される。



 古い街を壊して新しい街をつくるのではなく、古い街の隣に新しい街をつくってきたカイロという都市は、時の流れに中断されることなく、歴史の遺産を見られる都市かもしれません。(p.145)


以前、カイロのイスラーム建築を見に行ってきたことがあるが、古代の街、中世の街、近代の街がそれぞれ隣り合うような形になっていた。この個所はその時の私の実感を要約してくれているように感じられた。



 なお東西の交易路と言えば、天山北路(天山山脈の北側のルート)や南路に代表されるシルクロードがわが国では有名ですが、東西交易の大半は往来が容易な海の道や草原の道を通じて行われており、シルクロードは商品ではなく、むしろ人(玄奘など)や情報が行き交う道であったようです。(p.149-150)


なるほど。確かに長距離の交易ということで言えば間違いなく海の道や草原の道がメインだっただろう。シルクロードは比較的短距離の交易路であった。非常に遠くのものが届いた場合でも、間に何か所もの都市が介在して届いたものが多い。逆に言えば、オアシス都市が点在していたこともあり、その間での人の往来はしやすかったと言えそうである。海の上や草原の上では人口密度が低いので日常的には情報は伝達されないが、いわゆるシルクロードは日常的な交易や人の往来があったと思われる。



ところで、隋と唐は同じ一族です。しかも漢に代表される漢民族ではなく、異民族です。「五胡十六国時代」に登場した遊牧民の中に鮮卑という部族がいました。この鮮卑の中に拓跋部という協力で優秀な一族がいました。この一族は、ちょうどローマ帝国に押し寄せた諸部族同士が相争う中でフランク族が勝ち抜いたように、五胡十六国時代を勝ち抜き、南北朝時代に北魏という強力な国家を建てました。北魏は、最終的には中国を支配するために拓跋部全体を中国の文化に同化させ、漢民族のように振る舞います。この北魏が分裂抗争するプロセスの中で、拓跋部の中の一族が隋を建国し、さらに唐を建国したという歴史があるのです。
 余談ですが、隋や唐の前身は遊牧民なので、遊牧民に対しては友好な関係を希求します。したがって、始皇帝が築き始めた万里の長城という、遊牧民の侵入を防ぐための大城壁の建設に、この二国は関わっていません長城を築いた王朝の代表は、漢民族の明でした。今日まで残っている長城の大半は明代のものです。(p.183-184)


隋は統治期間が短いので別としても、唐がどのような王朝だったかを考えるにあたっては、この王朝が遊牧民出身であるということを考慮に入れると理解しやすいことが多いように思われる。領土が西に長くアッバース朝と接するまでであったこと、それと関連して長安などが非常に国際色豊かな都市だったとされること、唐三彩なども西方から伝わった技術とも言われていたり、ペルシア人の形をしたものなども多いこと(なお、個人的には唐三彩の質感は中東の陶器と似ているように感じている)など。



節度使のいた役所は幕府と呼ばれました。この幕府の呼称が、そのまま日本に入り鎌倉幕府や室町幕府という呼び名となり、日本では幕府の最高権力者のことを将軍と呼ぶようになりました。将軍とは征夷大将軍のことです。本来は陸奥の蝦夷を征討するのが、征夷大将軍の役割でした。ところで夷とは、もともと中国が東方の蛮族を呼んだ呼称です。従って節度使と征夷大将軍はよく似た役割を担っていたのです。(p.184-185)


なるほど。



「陛下、いっそ鄭和艦隊を潰してそのお金で万里の長城を増築しませんか」
……(中略)……。
 大国明にしては、愚かな発想でした。海賊がいなくなって安全となったインド洋に、ポルトガルから150トンほどの船3~5隻に150人ほどの乗組員を乗せてヴァスコ・ダ・ガマがやってきたのは、1498年でした。彼らは、その貧弱な船団で無事にインド西海岸のカリカットに上陸し、領土としました。もしも、鄭和艦隊がいたら、決してこの行動を許さなかったでしょう。このヴァスコ・ダ・ガマのインド到達が、東南アジア諸国、インドそして中国自体が植民地化されていく、大きな契機になったのです。
「万里の長城など造っても、受け身の防備のみで遊牧民の攻撃を避け切れるものではない。鄭和艦隊を潰すな」
 誰かそう進言する人間がいたら、ポルトガルやスペインなど西欧諸国の海上帝国は現出しなかったかも知れないのです。(p.212-213)


鄭和の艦隊が活動を続けていればポルトガルやスペインの進出を防ぎ得たのではないかという指摘は興味深い。インド洋を安全な海にした後、活動をやめたことで、西欧からの侵入がしやすくなった上に、彼らに侵略行為による拠点の獲得をも許してしまった、というわけだ。まぁ、いつまでも活動し続けられるとは考えられないが、それでも当面活動を続けていれば歴史はそれなりに変わっていただろうとは言えそうだ。



 ところで日本は、1937年の盧溝橋事件から1945年の敗戦までの八年間中国と戦争を行い、その間北京を占領していました。読者の皆さんのお父さんやお祖父さんの中には北京生まれの人がいるかもしれません。(p.217)


北京を占領していたということについては、あまりイメージがないかも知れない。大同の雲崗石窟なども日本が占領していたのだから、それより近い北京が占領されていてもおかしくはないのだが、あまり語られないように思う。


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