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アヴェスターにはこう書いている?
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上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その3)

そこでは責任倫理は「権力政治を正当化する論理になっている。果して、彼の『職業としての政治』のためのメモ用紙には、権力の倫理」(Ethik der Macht)が「責任の倫理」(Ethik der Verantwortung)と書き改められている。つまり「責任倫理」と「心情倫理」の対立はもとは「権力倫理」と「心情倫理」との対立だったわけである。ウェーバーが「権力」を「責任」にスウィッチしえたことからわれわれは逆に彼の「権力」(ウェーバーのいう「真の権力」)が何であるか見ることができよう。(p.219)


これは興味深い指摘。責任倫理は権力政治を正当化する論理というのは、確かにその通りであろう。それよりも広い意味を持ってはいるとも思うが。



 ウェーバー・クライスは、もともとウェーバーが設け、主宰したサークルなのではなく、ハイデルベルクの知的風土を背景にしてつくりだされたものであり、ウェーバーも途中から参加したが、次第にウェーバーの問題関心を中心に動くようになったものである。(p.258)


このことの詳細はこれに続く行論によって説明されていくが、非常に興味深いものである。当初は宗教史の問題が研究の中心だったサークルが、メンバーの世代交代によって社会学の問題へと関心がシフトしたとされ、その媒介となったのがウェーバーとトレルチだったという。ウェーバーが倫理論文などを書くことになったのも、そうしたサークルとして歴史的に共有されていた問題関心の影響があったと考えてよいだろう。



イェリネックは、人権論にしても、社会契約論にしてもその起源を大陸ではなく、スコットランド、イギリス、アメリカの運動に求めている。それは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がイギリス、アメリカのピューリタニズムにその起源を求めた発想と共通する同時代の思想潮流であったといえよう。(p.294)


イギリスやアメリカに起源を求めることで、フランスからの影響という風にしなくて済むという点は当時のドイツのナショナリズムにとって意味があった(感覚として腑に落ちやすかった)のであろう。



テニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』を前に、社会思想界を大きくリードしたものに、ギールケのゲノッセンシャフト論がある。ギールケは歴史法学派の掉尾をかざった法学者であるが、彼は一般的な団体理論に基づいて当時の社会運動を進化論的(エヴォルティオン)に解明しようとした。このゲノッセンシャフトは、従来の「国家と社会」の二元論のシェーマではなく、「支配と共同体」(Herrschaft und Genossenschaft)の図式を人々に提示した。(p.295)


ウェーバーのいわゆる『経済と社会』の中に、よくゲノッセンシャフトという概念が登場してくるが、ある意味、こうしたウェーバーの一つ上の世代(ギールケは1841年生)の議論を前提にしたものだったことを踏まえて読むことができれば、より深く読むことができるように思われる。



 フランス啓蒙からの離脱現象が、大衆民主主義状況の中で、労働者をも包含できる近代人の主体を前提にした、新しい個人主義、市民的自由の確立を求める思想家群から起こっていることは、ドイツの思想界の変動の兆候である。フランス啓蒙家のルソーの社会契約論、モンテスキュウの三権分立論、さらにフランス人権宣言などのフランス革命の遺産から脱出する運動は、自由と民主主義の人類史の金字塔であるフランス革命の遺産を破壊したり、それとの断絶を意図するのでなく、その現代的意義の組替えを求めるために、それらの淵源を他に遡らす、いわゆる「起源論争」という形態をとったのである。(p.308)


2つ前の引用文と関係する箇所。大衆民主主義という政治状況とナショナリズムとは結びつきがあることを一言添えておきたい。



 かくて、現在ウェーバー像をめぐって、神々の闘争に似た多面的解釈を許しているのは、多少とも彼の思想を社会的脈絡の中で診断することの少なかったことが帰因していると思われる。(p.343)


本書は1978年に出た本だが、これから20年経過した90年代末(例えば、山之内靖)や40年経過した現在においても「新しいウェーバー像」が出されるが、ウェーバー像を示すには本書の言うように社会的脈絡を十分に捉えることが欠かせないように思われる。

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