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アヴェスターにはこう書いている?
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上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その2)

 ウェーバーの「価値自由」が価値からの離脱ではなく、逆に価値への接近の学問的表現であることがよくいわれる。ウェーバーほど政治への強烈な関心を持ち続けた人は稀である。だがこの政治的志向の高まりも同世代人の意識状況と関連している。それは簡単にいえば、シュモラーらの講談社会主義の段階が前の時代のリベラル=マンチェスター派の政治闘争に対して非政治的な経済政策で克服しようとしたのに対して、ウェーバーらの世代は大衆民主主義状況の中で再び政治的教授として登場したことである。
 ドイツの19世紀のアカデミズムと大学教授の政治行動には次のような潮流の変化がある。三月革命の挫折後の1860年代には、革命の余震もあって、1862年以来の憲法闘争に見られるように、大学教授は多く進歩党に所属してビスマルクの軍拡政策に抵抗した。その過程で「法治国家」論なり「人権」論なりを学問的成果として共通の財産にすることができた。したがって大学教授の有力者は殆んど議会に進出し、講壇と議事堂とを往復した。トライチュケ、テオドール・モムゼン、ルドルフ・フィルヒョーやグナイストといった人々は学者と議会人と同一人格において矛盾なく行動し得た。聴衆は学生と民衆の違いだけである。それは当然大学の講壇におけるデマゴギー(民衆扇動)を可能にした。ウェーバーが不快と魅力のコンプレックスの中に聴講したトライチュケはデマゴーグであった。
 ところがシュモラーらの講壇社会主義の時代になると、帝国創設期の政治状況の下で、学者層の政治志向がぐっと変ってくる。1860年代の自由主義政党の後退(進歩党の分裂と国民自由党の体制化)とそれに代る利益団体を基礎にした大衆政党の抬頭によって、ずっと名望家支配にのっかっていた教授達は、かつての政治的関心を失ない、大学人の政治への非参加が美徳とされたのである。(p.88)


ドイツが統一されたのは1871年であるが、それを控えた激動の時代には大学教授達も知識人として積極的に政治に参加する必要に迫られていたのに対し、体制がある程度安定してくると講談社会主義者のように政治的教授である必要はなくなった。しかし、講談社会主義者たちは政治家にはなっていないが、政治と無関係だったわけではなく、ウェーバーはその欺瞞に対して批判していくことになる(次の引用文参照)。このような感じだろうか。ドイツの学問と政治の状況を踏まえるとウェーバーの言動も一つ一つ時代を映し出す鏡となっていることがわかり、より興味深いものと感じられる。



イギリスの議会のように立法調査機能をもたなかったドイツでは、とくにウィルヘルム体制に入り、政府と社会政策学会との関係は、一種の政府の立法下請機関的要素をもっていたのである。そうした点でイギリスのフェビアン協会のように労働党という新党の結成への母胎になるような政治団体と対照的であったといわなければならない。こうしたシュモラー的客観性を装った社会政策学会がえせ中立的な官僚制と密着した体質をもっていることを、新しい政治意識をもった世代は嗅ぎとったのだ。(p.90)


社会政策学会の位置づけについて、ウェーバー関係の解説書などを見てもあまり的確に説明されることがなかったが、この叙述はそれらとは異なり非常に参考になった。ウェーバー自身が行った農業労働調査なども確かに立法調査的な志向と明らかに結びついている。



 とくにプットカーマー内相(1881~1888)は、保守的でない書記官の行政官庁への流入をすべて阻止した。リベラルな官僚層がプロイセンで急速に消失していったのはこの時期である。(p.132)


これはひどい。現代日本でも安倍政権によって内閣人事局が設置されて以降、官僚の上層部は同じような状況になっているのではないかというのが私の見立てであり、これがもたらす悪影響は計り知れないものであり、他人事ではない。こうした制度的なものであり、極端な動きが見えにくい部分は報道でもあまり注目されることがなく、一般の人びとにはあまり関心がもたれないが故に、その危険性はさらに高まる。



 私講師法の背景を分析していくと、それを実質的に推進させたのは、実は文部官僚よりも議会での自由保守党と国民自由党グループであることが分る。さらに財界が強力にその後押しをしていた。これがザールの大工業家シュトゥム男爵のグループなのである。ビスマルク時代、講壇社会主義は政府とともにその与党であった国民自由党、自由保守党両党に対して対立関係にはなかった。大学教授の多くはこの両党に所属していた。だがウィルヘルム体制に入り、社会主義者弾圧法が画餅に帰し、社会民主党が次第に帝国議会に進出し始めて(1890年に35議席、93年に44議席)から、資本家側は、「ドイツ工業家中央連合」を中心にして反社会主義の運動を自ら担い、皇帝カマリラとともに社会主義の抑圧に狂奔するに至った。彼らは、1894年にいわゆる「転覆法案」を用意し、その失敗後の1897年「小社会主義法」を、98年、99年には帝国議会でいわゆる「懲役法案」を強行しようと試みた。これらの反社会主義法案を契機にして、シュトゥム王国(1896~1901年)と、講壇社会主義との闘争が開始されることになる。(p.156)


私講師法とは、1898年に成立した法律で、それまで(教授とは異なり)国家の官吏ではなかった私講師を国家の官吏として位置づけることによって文部省が任免の権限などを持つようにしたものであり、それまでは大学の学部に属しており、学部の内部で後進の養成をしていたところに政府が介入できるようにしたものであった。このことの問題については、前のエントリーの2つ目の引用文についてのコメントでも触れた。

財界による反社会主義の運動については、もっと詳しく知っておいた方がよいように思う。ある意味では、今も財界の行動の傾向に変わりはないのだから。



 この講壇社会主義者シュモラーやウァーグナーらと、若い世代のウェーバー、テニエス、ゾンバルトらと、シュトゥム王国との間には三極構造がみられる。三者は相互に対敵関係にあった。しかしこの1896・7年段階では、まだ若い社会政策学会のグループと旧い講壇社会主義者とは一体性があり、対シュトゥム闘争において共同的立場にあった。しかし1900年以降、学者でなく、財界人であり、議会人であったシュトゥムの攻撃が終り、代ってドイツ工業家連合が彼らの利益代弁者の学者を大学に進出させ全面的に講壇社会主義に攻撃をし向けるに至って、この三極構造は微妙な変化を伴ってくる。社会政策学会の内部で価値判断論争が本格化したとき、資本家の代弁グループは、ウェーバーの唾棄し、酷評した「にせ価値自由」論者として、この世代間論争としての価値判断論争に積極的に介入したのである。この間に資本家の側の発言力が増大し、ブレンターノを含めて講壇社会主義が衰退していく中で、ウェーバーは両者に対して論争を挑んでいったのである。(p.159)


ウェーバーの価値自由の議論がどのような状況で出されたものだったのかが非常によくわかる。看過できないのは財界が代弁者を大学教授として大量に大学に送り込むことが出来ていたドイツの大学制度である。政府を仲介として財界が影響力を持てるようになっていたことがわかる。現代日本でも特に国立大学の法人化以後、大学の独立性や自治が急速に失われて行っているように見えるのが憂慮される


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