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アヴェスターにはこう書いている?
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中西聡 『海の富豪の資本主義 北前船と日本の産業化』

 これらの北前船主が、垂直統合経営に向かうか複合経営に向かうかの分岐点は、近世期の北海道への進出時期と進出形態にあったと考えられる。
 第Ⅰ部で取り上げた西川・酒谷・右近家は、いずれも18世紀から北海道産物取引が商業的蓄積の基盤であり、それぞれ両浜組商人あるいは荷所船主として、その利益基盤が支配権力により保護されていた。もっとも、その対価として支配権力へのかなりの御用金を負担する必要があったが、近世北海道の封建領主であった松前藩は、18世紀には北海道産物の生産・流通を商人に委ねて、運上金や沖の口口銭の形態で、間接的に収益の一部を取得する支配形態を採用したため、北海道産物の生産・流通の中心的担い手であった両浜組商人や荷所船主が直接御用輸送・御用商売を担う必要はなく、彼らの商業的蓄積は、支配権力による規制の範囲内での自由な商取引に基盤を置いていた。
 それゆえ、18世紀末以降江戸系商人の北海道進出とともに、両浜組商人や荷所船主の特権は失われたが、場所請負を行った両浜組商人は自ら船を所有して場所経営を拡大することで、また荷所船主は買積経営に転換することで、それぞれ経営危機を乗り切り、大坂など本州の集散地と北海道との地域間価格差を活かして商業的蓄積を進めた。
 19世紀初頭に場所請負に進出した藤野家を含め、これらの北前船主にとっては、すでに近世期から地域間価格差を活かして北海道産物を専ら取り扱うことが、商業的蓄積の中心的基盤となっており、支配権力との経済的関係は、御用金を負担するか否かのみの関係に集約され、廃藩置県により、封建的支配権力が消滅しても、その経営形態を転換する必要はなかった。しかも1880年代に米・綿・砂糖などそれまで北前船主が主に扱った産品の地域間格差が縮小するなかで(前掲表序-9)、北海道産物では、依然として北海道・畿内間でかなりの地域間価格差が残されたため、彼らは近世期と同様の垂直統合経営を近代期も継続した。幕末期に雇船頭から自立した西村家は、成長期が1880年代であり、北海道産物を専ら扱い、北海道と大阪の両方に経営拠点を設け、垂直統合経営を展開した。
 そのため、三井物産のような近代的巨大資本が北海道物産市場に参入した際に、西川・酒谷・右近家らは自らの商権を守るために団結し、北陸親議会を中心として商取引と輸送をめぐって近代的諸勢力と争った。その結果彼らは、1890年代も北海道産物取引でかなりの商業的蓄積を上げたが、競争相手の三井物産が北海道産物市場から撤退した後は、団結するインセンティブがなくなり、またさらなる汽船網・通信網の整備とともに、地域間価格差が縮小したため旧荷所船主の北前船主は、汽船経営に転換したり、海運経営から撤退した。そして、旧場所請負商人の北前船主は、北海道での漁業経営に専念するようになった。
 一方、第Ⅱ部で取り上げた北前船主は、北海道物産取引への進出がいずれも19世紀中葉以降と考えられ、その時点では、北海道産物の商権を第Ⅰ部の北前船主らが握っていたため、北海道産物よりむしろ米・木綿・綿・砂糖など出身地元市場と深く関係する多様な商品を主に扱った。それゆえ、近世期より地域経済とのつながりが強く、幕末期にある程度の土地を出身地元で取得していた。近代に入り、彼らは北海道産物も取引するようになり、前述のように米・木綿・綿・砂糖などの地域間価格差が1880年代に縮小すると、80年代後半から北海道産物取引を主に行った。とはいえ、北海道産物・米・塩・砂糖などの地域間価格差は70年代にはかなり残されたと思われ、特に70年代後半のインフレ期に相当の商業利益を上げた。その商業的蓄積が、1880年代の土地取得の原資となり、彼らは商業上の拠点を北海道に設けつつ、出身地元でも大規模な地主となった。
 その結果彼らは、北海道産物を専ら扱った1890年代でも、出身地元市場と深く関わり、例えば野村家・伊藤家は地元産の米を北海道へ運んで販売し、熊田家は北海道産魚肥を地元へ運んで販売した。このような土地経営や地元市場を介する地域経済との深いつながりが、彼らの複合的経営展開の背景にあり、家業の商業の他に、野村家は地元で土地経営・酒造経営・銀行経営を行い、伊藤家は地元で金銭貸付業や農業経営を行い、熊田家は地元で土地経営や運輸・倉庫業を行った。そして秋野・斎藤・瀧田家や東岩瀬の船主も地元で土地経営・銀行経営などを行った。(p.390-392)


本書では北前船主を3つの類型に区別して、その特徴などを明らかにしているが、そのうち、①北海道物産を中心に扱い、海運関連部門に進出し、出身地域経済との関係が弱いタイプと②近世期に支配権力から相対的に離れており、近代期に多様な業種に展開し、地域経済との関係が深いタイプについて、その経営形態が異なっている理由についてコンパクトに説明した箇所。もともと18世紀以前の経営形態というか利益の源泉がどこにあったかということが、明治中期頃の経営形態にまでつながっていることが見えて興味深い。北海道と本州との地域間価格差が比較的後まで残ったことは、それに適応することで大きく資産を増やしたりなどの影響もあったにせよ、ある程度の長い時間軸で考えれば、基本的には一時的/一過性の現象であったと見ることもできるのかもしれない。

ちなみに、本書が扱う第三の類型は、近世期には支配権力と近く、近代に入ると海運業は停滞し、土地経営に展開したタイプである。本書が記述する内容から判断すると、この類型が他の類型よりもピケティの示す最富裕層(上位1%の階層)に近いと思われる。それに対し、第一と第二の類型は上から2-10%の階層に近いように見える。



近代日本における人口分布は、東京を含む南関東(東京府・千葉県・神奈川県)と大阪を含む近畿臨海(大阪府・兵庫県・和歌山県)に特に人口集中が進んだわけではなく、第一次世界大戦前は、近代初頭の地域別人口分布がほぼそのまま維持された。第一次世界大戦以降に、東京・大阪の巨大都市化が進んだなかで、南関東・近畿臨海の全国に占める人口比率は若干増加したが、前掲表終-12で示した工業生産額の地域別偏差に比べれば人口の地域別偏差ははるかに小さかった。
 むろん、南関東や近畿臨海地方の内部で、大都市部への人口集中は進んだと考えられるが、本書で問題とした日本海沿岸地域と大都市圏との地域比較の視点では、東北地方の全国に占める人口比率は1876年から1935年までほとんど変化がなく、北陸地方は企業勃興期に一度人口比率が増大して、それから徐々に人口比率が低下した。1895年以降の北海道の人口比率の増加と北陸地方の人口比率の現象が同じペースで進み、北海道の人口増加は、北陸・東北日本海沿岸からの流入が中心であったと考えられる。また、山陰地方の全国に占める人口比率もそれほど減少せず、山陽・四国地方の方の人口比率が減少しており、その部分が恐らく大阪・神戸を含む近畿臨海地方への人口移動となったと考えられる。(p.436-437)


第一次大戦前は地域間の人口比率がそれ以前とあまり変わっていなかったというのは意外な感じがする。大正期に勤労者が増加し、都市的なライフスタイルが広まったことなどは、それ以前と比べると都市化の速度が速くなったことと関係があるように思われる。この辺りのことはなかなか面白そうなので、機会があれば調べてみたい。

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