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アヴェスターにはこう書いている?
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大庭幸生・永井秀夫 編 『県民100年史1 北海道の百年』

 屯田兵村は、官による計画村落の典型というべきものであった。兵村は当初札幌周辺に配置され、十年代終りから遠く室蘭・根室・厚岸各郡へむかったが、これは主として警備上の理由からであり、つぎに二十年代は空知・雨竜・石狩国上川各郡の農業適地へ配置され、三十年代はふたたび警備上の理由が加わって常呂・紋別・天塩国上川各郡に設置をみた。多分このことと関連して、おおむね初期の兵村では兵員招集や監督上の便宜から密居制をとり、中期には粗居制、さらに後期にふたたび密居制に戻っている。(p.80)


兵村の設置目的に応じて村落の配置も変わるというのは興味深い。



タコ労働者は道外から募集されたものが多い。募集人は甘い言葉で労働者を誘い、遊興を勧めて前借を重ねさせ、土木現場に送りこむことで、かなりの報酬を業者から受け取ることができた。
 大正期の後半から、新聞紙上に多く監獄部屋の酷使・虐待・殺傷などの記事があらわれるようになり、人道主義的な批判が高まった。やがて道庁官吏による社会政策的立場からの避難や、司法関係者による犯罪防止的立場からの非難も加わった。……(中略)……。しかし、土木請負業者はタコ労働者を抜きにしては北海道の拓殖は進められないといい、募集方法の改善などが試みられたが監獄部屋そのものを消滅させることはできなかった。かえって戦時中には労働強化が進み、監獄部屋はふたたび増加の傾向をたどったと考えられる。(p.182-183)


囚人労働を継ぐものとしてタコ労働者が活用されたが、その手法は、いわゆる従軍慰安婦などとも共通点があると思われる。むしろ、北海道で先に実施されていたタコ労働者の募集が先例となっていたのではないかとも思わされる。これらの「業者」は同じ業者がやっていた事例はないのだろうか?または、関連がある業者が行っているといったことはなかったのだろうか?また、本書では戦時中についての記述は推定の域を出ていないが、これを裏付けるような議論というものはないのだろうか?



 明治12年(1879)「学制」にかわって「教育令」が公布され、これを機に開拓使の本・支庁では、小学校のうち規定の六科を具備しない「変則小学校」制を施行する学校を定めたが、先進地をのぞくほとんどの学校は変則小学校であった。このような教育制度上の差別は、このあと昭和初期まで継続したが、その理由とされたのは、人民の経済力の薄弱さやそれを強化するための実用的教育の必要性などであった。(p.197)


人民の経済力の薄弱さを理由として教育機会を制限するというのは、本末転倒の議論であるように思われる。経済力がないからこそ教育機会を平等に与えて、そこから抜け出せるようにするというのが教育制度の本来のあり方ではないのか?



キリスト教はとくに明治20・30年代の伸長が著しい。各派別教会数の変遷をみると、明治・大正期に設立された各派教会数199の65%・130がこの間に設立されており、現在まで残存している教会数81の72%・58がこの時期のものである。北海道開拓全盛期の時代は、その前後にくらべて官憲による迫害も少なかったようである(福島恒夫『北海道キリスト教史』)。(p.198)


興味深い。官憲の迫害が少なかったのだとすれば、その要因はどのような点にあったのだろう?人口の増加(社会増)が大きかったために、社会の変動が大きく、管理しようにもできなかったということだろうか?それとも、憲法の制定(明治23年)に伴う政府の体制(機構の改革)なども関係しているのだろうか?

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