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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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関秀志 編 『札幌の地名がわかる本』

このあたりから北49条まで、東1丁目から同8丁目あたりは、そもそも北大第三農場として開墾された地域で、北26条東3丁目に開墾費が残されている。(p.58-59)


美香保公園のあたりについての記述。



 この地区は明治41年(1908)、小樽で海運業などを営む山本久右衛門が、厚別原野と呼ばれる泥炭の低湿地だったこの一帯の払い下げを受け、翌年に山本農場を開設して開拓がはじまった。(p.81)


厚別町山本についての記述。厚別と小樽はあまり関係性が意識されない地域だと思うので、こうしたつながりがあるという指摘は興味深い。



 しかし、その戸口をみると、明治3年の9戸・13人から、開拓使時代末期(同14年)には1136戸・3823人へと増加してはいるものの、未だ少なく、10万人を超えたのは約半世紀後の大正9年(1920)になってからのことであった。(p.185)


札幌の人口。低湿地の開発状況などもこうした人口の動態に関係するものと思われるが、より短期的な政治経済的な要因も考えられ、そちらの方の詳細な分析というものをあまり見たことがないので(簡単な説明はされることはあるが、十分な説得力を持つほどのものではない)、この点に興味がある。



 このように、札幌市域で営みを続けてきた地付きのアイヌ社会は、明治15年(1882)頃までにその姿が確認できなくなる。市内に暮らしたアイヌの人々は、石狩川支流でのサケ・マス漁禁止など開拓政策を受け、本流の茨戸へ、ついで旭川近文の「旧土人保護地」jへの移転を余儀なくされたのである。(p.205)


こうした「開拓」と名付けられた侵略的な行為はもっと明らかにされるべきだろう。北海道開拓を全否定する必要はないとは思うが、負の側面についてももっと記憶にとどめられるべきである。



 屯田兵の兵役期間は長期におよんだが、明治29年から同34年に後備役が終了し、屯田兵村も終焉を迎えた。しかし、開拓移民となった屯田兵とその子息たちは、識字者が多かったことや、札幌周辺に居留したこともあり、兵役終了後も官吏(役人)、警察、教員などになるケースが多かった。明治初期の札幌官界の裏側を支えていたのは、こうした屯田兵村の出身者たちであった。(p.268)


こうした社会的な移行がどのように行われたのかということは興味を惹かれる。ここでは屯田兵が制度がなくなった後、その子息たちがどのような進路へと進んだのかが述べられているが、明治以後、アイヌの人々もどんどん社会の中でのプレゼンスが下がるなか、どのように移動し、どのような社会的な役割を担うようになったのか、という点が気になるところである。



水害が多発する泥炭地帯を明治41年(1908)、小樽の実業家山本久右衛門が払い下げを受けて開拓が始まる。養子の厚三が後を継ぎ、開拓を完成させた。昭和9年(1934)、厚三の姓にちなんで地区名を山本と命名。厚三は衆議院議員であり、自作農創設の気運の中で農地を解放した。(p.298)


またもや厚別町山本についての叙述だが、ここで明治末に泥炭地を農地に変えたという話は、札幌の人口増加とも深く関わる論点であり、本書は淡々と各地域に関することが書かれているが、それをどのように有機的に結びつけて理解できるかによって、面白く読めるかそうでないかが決まってくる。

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