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アヴェスターにはこう書いている?
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森田洋司 『いじめとは何か 教室の問題、社会の問題』

 「いじめ」「不登校」を、このように併記する傾向が生まれたのは、底流に、前期の「個人-社会」軸と「被害-加害」軸でいえば、「個人」と「被害」という極に近い視点で現象を捉え、対策を立ててきたからである。
 文部省のスクール・カウンセラー委託事業が90年代半ばに始まって以来、日本の学校現場ではすっかり定着している。日本のいじめ対応は、「個人のこころ」への焦点化をさらに進め、「心理主義」的な色彩を強く帯びたものとなった。(p.29)


この辺りの対応も、私が常々主張している、日本の社会においては社会科学の教育や普及が欠けていることが背景のひとつと思われる。



私が当時の文部省による、学校向けのいじめのリーフレットを説明していたとき、海外のシンポジストたちが一様に疑問を呈したのは、日本の転校措置の背後にある基本姿勢についてであった。
 リーフレットには、いじめられた児童生徒に対して、席替え、クラス替えや転校措置を柔軟に行うと記載されていた。被害者を守るという視点から考えれば、自然な発想と私たちには思えた。
 しかし、彼らは、一様に「いじめられた子どものほうが、なぜ転校しなければならないのか。転校すべきは、いじめた側ではないか」と疑問を投げかけてきた。ヨーロッパの発想に照らせば、共同生活のなかで被害が発生し、安全が損なわれたとき、学校が加害責任を明らかにし、加害者にその責任を果たすよう求めるのは当然であり、それこそが、共同体における正義を実現する妥当な方法である。(p.31-32)


ヨーロッパの発想とされている考え方に私も賛成である。加害行為を積極的に行った者を特定したら、基本的にはその者を転校させるべきだ。もちろん、その社会にいじめが発生するのは、その加害者だけが原因ではないだろう。個人の問題というよりは、その社会にいじめを発生させやすい状況が存在するであろう。しかし、客観的に見て積極的な加害行為が確認されたのであれば、そのような積極的な加害者こそ転校させる措置を取るべきだ。被害者が転校しなければならない状況に追い込まれるなどというのは、加害者を特定できるまでの間の一時的な措置等としてであれば理解はできるが、基本的に誤った対応である。



児童会・生徒会の活用は、「心づくり」から「社会づくり」へと対策をシフトさせるものである。つまり、個人の心の内面に歯止めを作るのではなく、社会や集団の力を増すことによって、集団のなかに歯止めを埋め込もうとする試みである。(p.61)


緊急的な対応とは別に、日常的にこうした取り組みは重要であると思われる。



しかし、現実のいじめを力関係から捉え直してみると、いじめが生み出される前提に脆弱性があるというのではなく、相互作用のなかで、相手の脆弱性が生み出され、そして優位に立つ側の力が乱用されると捉えたほうが、事実に即している。いじめとは相手に脆弱性を見出し、それを利用する、あるいは、脆弱性を作り出していく過程である。(p.76)


ルーマン的な感じ?この捉え方は妥当であると思われる。



固定化が起きるのは、力のバランスが一方に傾いたままの状態が続き、そこに力が乱用され続けているからである。周りの子どもたちや教師による歯止めは、固定化し一方に偏った力のバランスに均衡を取り戻す働きをもっている。(p.77)


この考え方は、よほどひどい状況にまで進んでいない場合には、それなりの効果を持つ対応に繋がると思われる。



すなわち、いじめとは、相手に対して優位な資源を動員して、そこに生じる優勢な力を乱用することと考えられる。
 このように考えると、いじめに対応する場合にも、一歩踏み込み、子どもたちの日常生活の力関係に着目し、背後に潜むパワー資源を探し出し、そこに働きかけていくことがポイントとして浮かび上がってくる。(p.78)


この観点は解決策を見出すのに役立つと思われる。



 いじめにおいて、相手を弱い立場に立たせ、「逃れられないようにして」おく最も効果の高い方法は、集団や関係性のなかに囲い込むことである。完全に集団から外れてしまった子どもに、仲間外しは効果がない。まだつながっていたいと思っていたり、外れる不安感に襲われているときに、攻撃力は高まる。
 学校や学級のような「組織」を逃れることは容易でないが、友人関係は逃れようとすれば逃れられると考えがちである。事実、深刻ないじめに遭っている子どもに、教師やカウンセラーが、いじめる子どもたちとの関係を絶って、別のグループの子どもたちと付き合うよう勧めることがある。しかし、それでも依然として関係を切ろうとしない場合が少なくない。たとえいじめがあろうとも、親密な友達関係は、彼らの居場所であり、それなりに充足感を与えてくれるからである。(p.91-92)


最後の一文はなるほどと思わされた。すでに「居場所」になってしまっている友人関係を切るというのは、意外と難しい場合があるということは理解しておくべき。この場合、別の居場所を作っていくことで切り離しは容易になるであろう。



 いじめが発生することは不可避だとしても、それを抑止する社会と抑止しない社会とがあり、現実にいじめを止められる社会と止められない社会とに分かれる。その分岐点は、いじめ問題を個人化して捉え、対応も個人化するか、集団や社会の全員が関わる問題として公共化して捉え、構成員の役割であり責務として問題の解決に臨むかにある。その違いを作り出すことこそが、まさに教育に課せられた使命といえる。(p.142)


このような方向に社会を進めていきたいものだ。



たとえば、子どもたちが通学路の美化活動に関わる。私たちは、これをボランティアと見なしがちである。だが、これらは厳密にいえば、ソーシャル・サービスと呼ぶべき活動である。(p.192)


なるほど。社会や集団から割り当てられた社会的役割という土台の上に、ソーシャル・サービスがあり、その上にボランティア活動があるという捉え方。参考になる。



 国際比較調査を見ても、日本の子どもたちは、家庭のなかで特定の役割を負うことが圧倒的に少ない。家事を手伝うことも少なく、手伝えばお駄賃を要求する子どももいる。また、勉強することが、あたかも子どもの家庭での役割のように考えている親も多い。しかし、勉強は家族集団を営むための仕事ではない
 こうした日本の子育て風土のなかで、子どもたちは、家族といえども社会集団の一つであり、子どもといえども集団の一員としてしなければならない仕事があるのだ、という認識を育むことがおろそかになっている。(p.193)


確かにその通りかもしれない。現在の日本では共稼ぎの家庭が多くなっていると思われるが、このことはより一層この傾向に拍車をかけるのではないかと思う。親が働いていれば、子どもは自分で家の仕事をしなければならなくなるのではないか、と思うかもしれないが、親が家で家族の仕事をする時間が限られると、子どもにやらせるということはより難しくなる。なぜならば、子どもにやらせた仕事は多くの場合、後始末が生じることになり、より一層の手間暇がかかるからである。どのようにすれば子供に家族や社会の一員としての役割を担わせることができるのか、よく考えて実践していく必要があると思われる。

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