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アヴェスターにはこう書いている?
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吉田徹 『感情の政治学』(その3)

政治と信頼というテーマが大きな注目を浴びるようになったのは1990年代、アメリカの社会学者ジェームズ・コールマンや政治学者ロバート・パットナムが「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」が民主主義の質にとって非常に大きな影響を与えている、と唱えるようになってからだ。(p.230)


確かにソーシャル・キャピタルに信頼は不可欠であり、ソーシャル・キャピタルに注目が集まるなかで信頼ということがテーマとなっていくという流れはある意味で自然なものだったと思われる。



自分のかいた汗が見知らぬ他人に正当に評価され、他人もまた自分のために汗をかいてくれるにちがいないという信頼があるからこそ、共同体は円滑に機能する、というのが社会関係資本論のエッセンスだった。信頼なくして民主主義はなく、民主主義が機能するには信頼がなければならない。(p.231)


分断が進む社会は、まさにこれとは真逆の方向に進んでいると言わざるを得ないが、現代日本でこのテーマに関連して見落とすことができない点の一つは、安倍政権という政権は全体として、極めて国民を信頼していない集団である、という点である。それはまず、マスメディアの統制を通じて事実を知らせないようにしたり、政権にとって都合の良い意見ばかりが流れるようにしている点に現れている。また、情報公開や国会での国民の代表からの質問にも、一切答えようとしない姿勢もこれと共通している。つまり、国民が事実を知ってしまえば、権力の座に居座ることができないと考えるからこそ、こうした誤魔化しをしなければならないのであって、その基本的なスタンスとしていかに国民を欺くかということに大いに気を遣っている。つまり、自らの権力を維持するために、政治の中枢から国民を遠ざけることに腐心している。

確かに、事実を知ってしまえば、国民の多くは安倍政権など支持しないだろう。その意味では政権は国民の意識をある程度正しく捉えている。しかし、国民からの負託を受けた権力を恣意的かつ利己的に使い続けるために、国民の目を欺き続け、国民の手に政治を取り戻させないというのは、あたかもその方が悪い政治であるかのように考えている点で国民に対する信頼がないというべきだろう。こうして国民を信頼しない集団が権力を手中にすることによって、民主主義とは異なる政治が実施されていく。この関係性は中国共産党と中国人民との関係と非常に似ているということを指摘すべきだろう。



つまり、日本の社会には社会関係資本があっても、それを使いこなし、駆動させる一定程度の人びとがおらず、このため人びとは「シニカルな市民」に留まり、「賢い市民」とはなり得ていないのである。(p.248)


デモや市民運動などが力を持てていないことと関係があるように思われる。



しかも社会学者の数土直紀は、アメリカでは有意に認められる教育水準と社会関係資本の相関関係が日本ではない、という。教育水準が高ければ、他人への信頼度が高く、逆に教育水準が低ければ信頼度も低いというのが一般的なパターンだからだ。しかし日本では、こうしたパターンが成り立たない。その理由として数土は、先の猪口の指摘と同じように、日本では信頼関係が既存の関係の上にしか構築されない「権威主義的な信頼関係」の方が支配的だからだ、と推論している(数土 2013)。(p.252)


この理由については是非知りたいところだ。



 ここで、先に紹介したロトシュタインがかかえた問題、すなわち信頼と税、とりわけ社会保障の関係をふたたび取り上げてみよう。ここでもやはり水平的な信頼関係が大きな影響を及ぼしていることがわかる。というのも、他人との信頼関係の高低と福祉規模は相関関係にあるというパターンが一般的に指摘できるからだ。
 フランスの経済学者のアルガンとカユックは、その国の社会の「民度」の高さと、公共部門の効率性や福祉の水準との間に密接な相関関係があることを証明した(Algan & Cahuc 2007)。例えば、その国での相互不信の度合いと腐敗度(汚職や規範意識の低さ)は明らかに相関しており、そうした国では公共心が薄いゆえ、公的な制度への信頼が低いという関係が成り立つという。反対に他人への信頼や公共心が高く、公的制度に対する信頼が厚い国の人びとほど、福祉国家への支持が強いという関係が成り立つ。(p.252-253)


新自由主義は、この観点から言うと、社会の信頼を壊すことで、公的な制度への信頼も低くし、福祉の水準を下げ、汚職を増やし、規範意識を低くするものだ、ということができる。いかに碌でもないものかということがよくわかる。



 しかし、人びとの間に信頼があって、そこから人びとが信頼を寄せる制度が作られるのではなく、人びとの信頼はまず公平無私な制度があって生まれるのだという立場をとらない限り、社会のなかで信頼を増やしていくのは難しい。これは、実証上の問題ではなく、優れて倫理的かつ論理的な課題である。社会の全員にとって公平な普遍主義的な政策があり、それが人びとの間の信頼を高める作用を持つという因果関係を仮定しなければ、問題は解決されない。税制の例でいえば、すべての納税者を受益者とすることが政策への信頼を高めるためにまず必要であり、増税はこうしてはじめて可能になる。反対に、増税が何らかの特定の目的のためであることが強調されると、その社会での信頼がないと、増税は難しくなる。少なくとも、信頼が生成されるためには、増税の目的と対象は普遍的なものでなければならない。すなわち、特定の誰かのための政策ではないという「無私性」がなければ、個人間の信頼は生まれようがないのである。
 こうした論理は、社会心理学でも証明されている(中谷内 2008)。実験で観察されたのは、人は一般的に、他人が自分の問題を解決する能力をどれだけ持っていても、それだけの理由でその他人は信頼されないということだった。人は他人の持つ客観的な能力ではなく、その人の価値観、その人が信頼に値する人間であるかどうかの方が、信頼の条件とするのである。
 こう考えると、信頼のない社会で最初に必要とされるのは、「善意の政治権力」である。(p.259)


現代の日本社会を良くするために必要な基本的な方向性を指摘しているように思われる。しかし、現在の政治権力の中枢である安倍政権は、「悪意に満ちた政治権力」であるため、またもや悪い方向へと進んでいるのが現代日本の状況であるということも、はっきりする。(「無私性」というキーワードに照らしても、安倍晋三が「無私」とは程遠い「ぼくちゃんがやった」と功績を誇りたがり、他人をけなすことで自尊心を保とうとする人間であることなどから、正反対と言ってよいことが了解されるだろう。毎度の組閣が結局は「お友達内閣」であることも、「無私性」がないことをはっきりと示している。)

このような暗い状況ではあっても、本書がここで示している方向性は、日本にとって今後取っていくべき基本的な方向性として参考にすべきものだと考える。

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