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アヴェスターにはこう書いている?
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吉田徹 『感情の政治学』(その2)

 もっとも、「討議/熟議民主主義」が予定調和的な市民の合意を導くのではなく、反対に参加者の意見を急進化させ、態度を硬化させてしまうような効果を持つことも明らかになっている。……(中略)……。
 ここでなぜ熟議についての議論をしたのかは、もうわかるだろう。ただ単に異質な者同士を一堂に集めても、そこで調和的な政治が自然発生するわけでも、より良い知恵が生まれるわけでもない。その前提条件として、まず政治的に社会化されていること、すなわち他人と政治を介してつきあうという作法を身につけている必要があるのだ。(p.106-107)


熟議民主主義というと、基本的にはある種の理想的な状況であると考えられ、好意的に語られることが多いように思うが、実際には必ずしもバラ色のものではなく、うまく機能しない、思っていたのとは全く逆の効果を持つことすらあり得ることを踏まえておくことは重要と思われる。他人と政治を介してつきあう作法を身につけるということについて言うと、少なくとも現状の世界は、どんどんこの状態から遠ざかっている。アメリカでトランプがある程度の固い支持を得ていること、イギリスのブリグジットをめぐる混乱(世論の分断状況)などが典型的だが、ヨーロッパでも既存の権威と見なされるものを強く否定するようなポピュリズム政党がある程度の支持を受けていることなど単純で極端な意見へと流れる人びとがかなりの数おり、世論の分断が深まってきているというべきだろう。こうした姿勢を身につけるには、ある程度の若い時期(高校生や大学生くらいの時期)に社会的な問題に関して理性的な議論を重ねる経験を積むことが必要だ(効果的だ)と思われ、社会科学の訓練diciplineを積むことこそが、その最良の方法の一つと思う。しかし、日本の教育では、この点が極めて弱いことも問題である。



このスイスでは選挙の投票率を上げようと、1970年代から郵便による投票を認め、いくつかのカントン(州)ではインターネット投票が認められるまでになった。
 普通に考えて、先のダウンズの仮定を受け入れれば、投票コストは投票所に行くよりも、郵便で投票する方が下がるはずである。そして投票コストを下げれば、投票率は多少なりとも上がるはず、という推測が成り立つだろう。
 ところが、スイスではその逆の現象が起きてしまった。投票にまつわるコストを下げたところ、投票率は高くなるどころか、低くなる事例が多く観察されたのである(Funk 2008)。しかも投票所に赴くコストが高く、ネットや郵便投票でそのコストが決定的に下がるであろう過疎地域や小さなカントンで、さらにそれまで高投票率を実現していた地域であればあるほど、投票率が低下するという傾向がみられた(1000人以下の市町村の連邦選挙での投票率は平均2.5パーセント低下した)。スイス全体でみた場合、投票率はたしかに上がったものの、わずか2.3パーセントポイント程度の増加に留まった。なぜだろうか。
 こうした実態を突き止めた研究者は、郵送という投票方法が採用されたことで有権者は投票する義務(形式的ではあるがスイスでは棄権者は罰せられる)から解放され、むしろ小さなコミュニティでは投票所に足を運ぶことで得られていた社会的尊敬が失われることで、投票することの魅力が失われてしまったために投票率は下がった、と説明した。自分が投票に行く立派な市民であることを誇示するのも大切なことだったのだ。
 このように、投票という行為にも社会のさまざまな関係性が映り込んでいる。
……(中略)……。いずれにしても、投票するかどうかは、投票コストの高低や、自分の一票の軽重ではなく、何らかの外部的要因、それも社会や他人との関係性を無視して論じることはできない。(p.117-119)


興味ぶかい指摘。こうした社会的尊敬のような観点は見落とされがちだが、場合によっては無視できない重みがある。



新自由主義が真に非難されるべきなのは格差を拡大させたり、権威主義的な政治を行ったりするからではない。それは社会全体を他人に対する不信を前提に組み立てようとした「新自由主義モード」をもたらしたことにある。
 ……(中略)……。
 もし、政治家も公務員も市民も、自分の利益しか顧みずに、そして自分の利益を実現するために政治的な活動をしているとの考えが蔓延した場合、どのような帰結が生じるだろうか。それは、まず政治不信を帰結させる。政治家や公務員が市民の利益のために働いていないのだとすれば、有権者は政治に期待などしなくなってしまうだろう。公務員は納税者の「血税」を私利私欲で無駄遣いする存在でしかなくなるからだ。さらなる問題は、このような回路がいったんできあがってしまうと、有権者が最も重視するのは、こうした政治エリートから自分の利益を守るということになってしまう点にある。こうして、それぞれが互いに合理的な人間だとみなすことで、共同体全体の厚生が損なわれていくことになる。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 1980年代に台頭した新自由主義は、自身の論理を貫徹させることで、思わぬ副作用を生み出した。政治家や公務員が自己利益的な存在だとするならば、どのようにして政治に中立性と公平性をもたらしたらよいのか。
 その解答として出されたのが、公的な政治アクターを政治そのものから除外してしまうこと、すなわち「脱政治化」を進めることだった。(p.124-125)


新自由主義に対する興味深い批判。新自由主義の世界観を受けれ入れてしまうと、社会全体を他人に対する不信を前提に組み立てることになる。それは政治や行政への不信を帰結させ、こうした政治エリートから身を守るために、これらのアクターを政治の世界から除外しようとすること(民営化)に繋がっていく、というわけだ。



 政治的恩顧主義というと、腐敗や汚職といったダーティなイメージがつきまとうかもしれない。しかし、キッチェルトの他の研究では、恩顧主義的な政治を展開しているとされる国と、その国の政治腐敗度に明らかな相関関係はみられない(Kitschelt 2007)。恩顧主義と腐敗を同一視するのだとすればそれは、新興民主主義国や途上国一般が恩顧主義的政治をとっており、これらの国々では他の何らかの要因から汚職が発生しているという「観察上の一致」が生じていること、すなわち我々の偏見から生じているとした方が適切だろう。(p.142-143)


何となく、恩顧主義というと悪いものとされているが、必ずしもそうではないという理解は重要。



 こうしたエルスターの分類にしたがえば、政治とは人びとの手段に矮小化されるわけでもなければ、人びとの活動の目的として存在しているわけでもなく、その中間にあるものだ。そうであるのだとすれば、手段と目的をつなぐことのできる、個人と政治を結びつける何らかの行為が想定されなければならない。政治「によって生きる」のでも、政治「のために生きる」のでもなく、政治を他人と「作り上げて」いくためには、どうしても自分以外の存在と何がしかのものを交換しつづけていかなければならない。(p.144-145)


政治によって生きると政治のために生きるという表現は言うまでもなく、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』における分類である。政治を他人と「作り上げて」いくという表現は、確かにヴェーバーのパースペクティブでは捉え切れていない部分であり、自己言及的なものとしての政治という本書の政治観のイメージをつかみやすい表現であるように思われ、参考になる。



 個人が求めるものを与えるのが政治の使命と機能である、という観方は最終的に他人を手段として扱うようになってしまうことを、最後に協調しておこう。(p.147-148)


言われてみればその通りであると思う。この観点はかなり重要であり、より深く考えるに値するものであるように思う。

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