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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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吉田徹 『感情の政治学』(その1)

なぜなら、政治とは何よりも、それが達成すべき目的について、誰がそこに参加するのかに応じて、「正しさ」絶えず再定義されていく、自己言及的なものだからだ。目的から逆算して手段が決まるのではなく、手段に応じて目的がつねに変わっていくもの、と言い換えてもいい。ある目的を達成しようとして、ある手段を用いようとした場合、その手段を用いること自体についての是非が生じることになり、そしてその是非の如何によって目的の妥当性そのものについても議論が起こるのである。(p.22)


この政治とは自己言及的なものであるという政治観は、本書の随所で語られているが、参考になった。



好ましいと思い、支持している政治家や政党に論理上の過誤があったとしても、それは認識されず、逆に嫌いな政治家や政党に対しては必要以上に論理性を求めるといった行動があることなどが明らかにされた。(p.24)


なるほど。政治的な判断においては、政党や政治家に対する好感度や愛着のようなものが論理に先立っており、優位にあるわけだ。確かにこうした傾向はネットなどの言説ではっきり見て取れるし、ネットによって増幅もされているようにも思われる。



秘密投票は、投票所の仕切りのなかで自分自身の考えを何の躊躇もなく、自分自身への内閉を可能にして、政治行為を行うことを正当化し、ソシアビリテによる政治変革の道をマージナルなものへと追いやっていった。1980年代にも、イギリスのサッチャー政権は労働組合の力を削ごうと、ストライキ決行の判断を組合員による秘密投票で決めさせるよう法律を変えた。集団を個人化によって解体しようとしたのだ。こうみると、秘密投票はネット空間の「つぶやき」と似ていなくもない。(p.65)


秘密投票が持つ効果ということについて、この側面から考えたことはなかったので若干の驚きを感じた個所。秘密投票はこうした否定的ともいえる効果も持っているが、それでも、票の売買(買収)や政府や集団からの思想信条の自由の確保などのための制度でもあり、安易に捨てて良いものではないという点には変わりはないだろう。



しかし「ボートマッチ」のもとで展開される政治観はかなり非現実的な前提に基づいている。
 まず、争点に基づいて有権者が投票する選挙という想定自体が、きわめて思い込みの強い想定からの演繹である。というのも、このモデルが機能するためには、まず有権者が自分の意志が何であるかを自分で了解しており、各党がそれぞれ異なる政策を掲げており、その政党が政権をとった場合にはその政策が必ず実行されるはずだという信頼感を有権者が持っていることを前提とするからだ。しかし、これだけの条件が現実で出揃うのは、無理とまでは言わなくとも、かなり希少なことである。
 さらに、自分が好ましいと思う政策のすべてが、ひとつの政党や政治家の公約に集約されているとも限らない。(p.79)


候補者の人柄――多くの場合、実際には単なる「人柄のイメージ」だが――などではなく、掲げている政策に基づいて候補者や政党を選ぶべきだという考え方は、確かに正論ではあるが、こうした考え方は現実の政治から見逃しているものが多くあり、その点で誤りも多く含まれている。特に、上記引用文で強調した政策が実行されるかどうかについての信頼感という観点は重要であると思われる。むしろ、「ある政党や政治家はあることを実現すると言っているが、実際にはこのように動くだろう」という予想は投票先の決定に思われている以上に大きな影響力を持っているように思う。



そもそも、個人の個々の意思を積み重ねたとして、それはおそらくきわめて脆弱で移り変わりの激しい政治しか生まないだろう。党派性が薄れ、無党派層が増大したのと並行して、政治が争点の激しい入れ替わり(失言問題、郵政民営化、消えた年金、政権交代選挙等々)を経験するようになったことは無関係ではない。(p.80)


この観点から見たとき、現在の安倍政権がこれに対して極めて有効な対策を取っている点が想起される。マスメディアに圧力をかけることで批判的な意見が流れにくくした上で、官僚の人事を官邸が握れるように制度を変えることにより掌握することで、情報公開的な要求に対いても恣意的に不都合な情報は出ないようにする。記者会見なども多くは不都合な質問が出ないように「配慮」されている。こうして権力を極めて私物化する傾向が強い政権であるにもかかわらず、そのイメージを個々人が持ちにくいように仕向けることによって政権を維持している。これは反動的な勢力だからこそやりやすいやり方であって、民主的な勢力にはこのような情報統制的なやり方は支持者からの支持が得にくいという点だけで見ても不利である。この点はリベラル側の勢力にとっての課題の一つとなっているように思われる。



 つまり、同じ志向を持つ人びとがコミュニケーションをする場合、人びとは連帯意識や自分たちの正しさを再確認し、自分の思い込みを強化していくいのが一般的である(だからこそ集会は今も昔も重要な政治的動員の手段となる)。その地域で共和党支持者が多ければ多くの人びとが共和党に、反対に民主党支持者が多ければ多くの人びとが民主党に投票することになると推定するのが当然であり、アメリカでは、だから「ブルー・ステイツ(民主党常勝州)」と「レッド・ステイツ(共和党常勝州)」が存在する。(p.84)


新しい人が参加してこなくても同じ人たちだけで集まっていれば集会には意味があるということか。この点はあまり考えたことがなかった、というか、そんなことをして意味があるのかとさえ考えていたが、やはり意味はあるようだ。



アメリカの大統領選が「政策の選択」ではなく、単なる候補者の「人気投票」に過ぎず、あまりにも大統領の人格や性格が注目されすぎるというコメントが聞かれることがあるが、それは政治の本質を理解していない証である。アメリカの多くの青少年は大統領の権威を認めるなかで、徐々に民主政治を実現する政治制度への愛着を持つようになると言われる(Hess & Torney 1967)。自分よりも上位の権威に愛着を持ったうえで自分の存在を受容し、そしてその権威が保障する制度そのものに愛着を持つようになるというプロセスは、民主政治のなかの重要な契機なのであって、それゆえアメリカ大統領選では候補者の人格や生活態度一般までもが厳しい目で見られるのだ。(p.94)


この指摘はもっともだが、共同体の善を実現するためにどのような方法をとっていくのか、つまりどのような政策を実行していくのか、ということは軽視されるべきではなく、政治指導者の人格や性格などよりも重視される「べき」ものであるように思われる。その点で、人気投票的な形で選挙が行われる傾向の中、政策の妥当性をどのように担保していくのかということが、もっと厳しく問われるべきではないかと思う。

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