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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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南彰 『報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったか』

その激務には頭が下がるが、この会見場を広角でとらえると、奇妙な光景が広がる。
 記者がほとんどいないのだ。
 かつては会見を主催する記者クラブとの間で、記者が間に合うように一定の時間を設けて開始するのが通例だった。しかし、報道機関に頼らなくても会見の様子をインターネット中継できるようになった官邸は、記者がいようが、いまいが、速やかに記者会見を行えるようになった。そもそも質問を受けることを想定していない。ここに政府の見解を発表だけすればいいという本音が見えるが、そうした記者会見の映像が流れることによって、「危機管理に強い」というイメージを作り出すことにも成功している。
 「令和おじさん」として好感度を上げた19年4月1日の元号発表の記者会見も、あらかじめ幹事社(フジテレビ、産経新聞)の質問だけとし、政府の伝えたいことに絞った。(p.50-51)


メディア環境の変化によって既存マスメディアの力自体が相対的にかつてより落ちてきている。こうした環境の下で政府は自ら伝えたいことだけを垂れ流す傾向を強めている。安倍政権は説明責任については全く果たすつもりがない政権だと私は認識しているが、こうした邪悪な意図を持った権力者にとっては極めて都合の良い環境が整ってしまっている。マスメディアを批判する場合にも、こうした環境の変化を踏まえて、メディアが為すべきことを見定めていく必要があるように思われる。



公文書管理法は、人事権の掌握などによって権限が強大化する官邸に対し、事実に基づいて公平・中立な行政を行っていくための防波堤になるものだった。
 ところが、森友・加計学園問題や防衛省日報隠蔽問題などを受けて、安倍政権が17年12月に見直した公文書管理の基準となるガイドラインでは、そうした理念に逆行する見直しが行われた。
 加計学園問題で、文部科学省と首相官邸、内閣府側の言い分が対立した事例を念頭に、新しいガイドラインでは、他省庁や民間企業との協議内容を議事録に残す際は、原則として相手に内容を確認することになった。
 こうしたルールになれば、「総理のご意向」などと書かれた文書が作られることはないだろう。官邸に人事権を握られている役人にとって、先方から合意を得られる見通しのない記載をすること自体がリスクになったからだ。政策決定プロセスが見えにくくなり、将来的に軌道修正が必要になったときにも、そのヒントなどが見えにくくなるだろう。(p.171-172)


こうした事態については、本書を読む以前からも私も知ってはいたが、問題の大きさの割に世論での問題視のされ方は全く不釣り合いに小さい。世論に騒がれないように市民や国民に情報を閉ざしていくこうした姿勢こそ、安倍政権が支配の正当性を持たない、代表として選ばれるに値しない人々であることの証左なのだが。



 それどころか、公文書管理担当相は、首相が議長を務める国家戦略特区の担当相を兼ねていることが多い。いわば利益相反のような状況になっていて、加計学園問題でも、文部科学省や自治体側から文書が出ても、公文書管理担当相が所管している内閣府からは開示されないということが相次ぎ、規範意識は崩れる一方だった。(p.173-174)


なるほど。どうやら、内閣府特命担当大臣(地方創生担当大臣)というのが、これら両方を兼ねている役職のようだ。



 情報の出口をマスメディアが独占していた時代は、記者クラブに所属している既存メディアには取材先との間である種の交渉力があった。しかし、当事者がSNSで自由に発信できる環境となり、さらには、これまでのルールや表現方法と異なるネットメディアも選べる時代になるなかで、記者クラブメディアの交渉力は格段に落ちている。意に沿わないのであれば、相手にする必要性が薄れているのだ。
 先述した首相官邸の記者会見などの公の取材機会がどんどん縮小されている動きは、こうした既存メディアと取材先の力関係の変化のもとに進行している。(p.186)


マスメディアと政治権力との間の力関係が、メディア環境の変化によって格段に落ちてきている。そうした環境の助けを得て、安倍政権という邪悪な意図を持つ(つまり、本来は国民のものである情報を適切に公開することなく、政権にとって都合の良い形に加工した情報だけを垂れ流すことに腐心している)人々が、やりたい放題をやっている。こうした構造になっているということを理解できた点が本書から得た最大の収穫だった。



 メディアが全体として培ってきた権力均衡の仕組みが崩れている。
 政治部の取材現場でいえば、官邸クラブ、与党クラブ、野党クラブの間でお互いの取材をチェックし合い、個々の記者やクラブはキーパーソンの取材先に密着していたとしても、政治報道全体としてはバランスを取ることができた。
 しかし、官邸主導が強まるなかで、与党によって物事が左右されることはほぼなくなった。もちろん野党が動かすことも当面想定しにくい状況だ。そうしたなかでは、政治の動向を取材するには、官邸のキーパーソンに情報を依存せざるをえなくなる傾向が強まっている。(p.187)


90年代以後の政治改革の流れは首相の権限を強くし過ぎた。その結果、官邸は立法府(与党、野党)よりも、司法よりも力が強くなった(司法については次の引用文を参照)。その副作用的な帰結として、マスメディアに対しても優位に立った。これが現在の位置付けである。行政府が暴走したとき、それを止めるのは誰なのか?また、可能なのか?この問題に対して適切な回答が得られないのであれば、これまで進めてきた改革とは全く逆のベクトルで政府(首相)の権限を弱くする政治改革が必要である。



 また、自民党の長期政権が続くなかで、権力監視・均衡に大きな役割を果たしてきた司法の世界にも、強い官邸の影響が及んでいる。
 ……(中略)……。
 大谷氏が指摘するように、司法権力を密着取材する社会部の存在が権力チェックを担ってきたが、公文書改ざんという問題が起きても、検察は、財務省から徹底的に証拠を押収する強制捜査すら行わず、「証拠に基づいて」と言って、改ざん当時の佐川宣寿・理財局長らの不起訴処分を決めた。法務省を通じて、官邸の意向が捜査現場にも影響を与えたとされ、政治権力をチェックしてきた伝統的な社会部の報道の在り方を揺るがそうとしている。(p.188-189)


もはや司法すらも信用できない状況となってしまっている。このような権力(行政)が腐敗しないはずがない。



 最高裁は、国会と内閣をチェックし、三権分立の一角を担っているが、その弱みは、長官人事を内閣に握られていることだ
 過去にも、労働訴訟などの判断に自民党が不満を募らせていた1969年、安倍氏の大叔父にあたる佐藤栄作首相が、本命と目されていたリベラル派の田中二郎氏ではなく、保守派の石田和外氏を最高裁長官に任命したことがあった。第5代長官に就任した石田氏は「極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者は、裁判官として活動することには限界がありはしないか」と公言。リベラル傾向が強かった青年法律家協会所属の裁判官を排除していき、最高裁の判例も政府・自民党寄りへと覆った。「青年」にちなみ「ブルーパージ」といわれる黒歴史として語り継がれている。
 『日本の最高裁判所』の編著書がある市川正人・立命館大法科大学院教授(憲法学)は、「最高裁には権力も金もなく、権威だけを頼りに政治権力と対峙しなければならない。2000年代以降、権力側から反撃を食らわないギリギリの範囲で違憲判決を出そうという姿勢が出てきたことは評価できる。ただそれゆえに、いざ人事に介入されたとき、最高裁が政治権力に過度にすり寄ってしまわないかが心配だ」と指摘。「権威しかない最高裁が踏ん張れるかどうかは国民の側から『政権のやり方はおかしい』と声が上がってくるかどうかにかかっている」と語った。(p.194-195)


最高裁の判決に対しては、普通に考えると不自然なほど保守的(反動的あるいは自民党寄り)な傾向があると思ってきたが、その理由がよくわかった(ここで指摘されるブルーパージという黒歴史の作用)。21世紀になってから、行政権がさらに強まったためにこの問題がさらにはっきりと出てくることになっているというのが現時点の状況。
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