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アヴェスターにはこう書いている?
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荒松雄 『インド史におけるイスラム聖廟』(その1)

 すでに記したように、ムガル皇帝の墓地がデリーの著名なダルガーの内域に設けられたのは、七代皇帝シャー=アーラムⅠ世のこのダルガー[引用者注;シェイフ=クトゥブッディーンのダルガー]におけるものが最初の例であった(本章177頁以下を参照)。その前後から他のダルガーも含めて、ムガル皇族の墓地もダルガーの内域やその周辺の地域に設けられている。そうした事実が、さまざまな理由と根拠とに基づいたものであることは、本書の別章で触れておいた(527-533頁参照)。ムガル皇室の側にしてみれば、それは、大規模な墓を別の地に造営するよりはずっと安くあがるし、その墓所の管理と維持も、ダルガーのハーディムたちに一任することもできた。さらに、政治的、社会的な面でも、さまざまな利点があったことはいうまでもない。一方、ダルガーの側にしてみれば、ムガル帝室の墓地を自らのダルガーの内域に持つことは、ダルガーの運営の面で、その権威を増大させることにおいて著しいプラスとなったのであり、また、経済的利害関係においてもきわめて有利なことであった。すでに紹介したような地方的権力者やナワーブたちの墓を域内に持つことは、彼らダルガー関係者にとっては、社会的、経済的意味においても、さらに政治的な利害関係の面でさえ、きわめて大きな利益を齎らしたのである。(p.179)


帝室側の財政的メリットとダルガー側の宗教的及び経済的メリットさらには政治的なメリットが結びついているという指摘は興味深いものだった。

ムガル帝室の墓と言えば、フマユーン廟やタージ・マハルが有名だが、これらの最盛期を過ぎ第6代アウラングゼブの時代にはムガル帝室は財政難に陥っていた。この頃にはもはや最盛期のような壮大な墓を建造する力を失っていたことがこのような形で墓が設けられる背景にある。

ダルガーの側にもメリットがある宗教的権威が高まり、訪れる人が増え、集められる寄付も増える。さらに、権力者との関係も近くなる。



 ところで、本章で紹介したような、偽廟の成立という事実や、墓の主人公の名の改変といったことがらは、ダルガーの歴史、乃至はその宗教的・社会的意義に関わる問題として考えてみるときには、どのような意味を持つものであろうか。それについて考察することは本節の当面の目的ではないが、さしあたり、一、二の点に触れておきたいと思う。
 まず指摘しておきたいのは、これらの事実や現象は、スーフィー聖者の墓やダルガーが現実に民衆の崇敬する対象となっている場合、その遺跡に関する歴史的、客観的事実そのものは、屢々、第二義的意味しか持たぬものとなってしまい、その客観的事実の正確度の如何にかかわらず、そのダルガー乃至は墓や建造物が存在するという事実そのものが、権威を担い、影響力を持ってくるということを示している。これを別の言葉でいうならば、ある一つのダルガー、あるいは一つの墓が、その信奉者や巡礼者に対して意味を持つのは、その遺構に関する確実な歴史的事実そのものではなくして、たとえ歴史的には曖昧で、ときには出鱈目なことがらであっても、それに関するなんらかの伝承があればそれで十分である場合があるということである。(p.616)


事実が重んじられない2010年代の現代にとって、こうした問題は身近な問題である。



 以上、シェイフ=クトゥブッディーンとシェイフ=ニザームッディーン、およびシェイフ=ナスィールッディーンの、デリーにおけるサルタナット時代のチシュティー派の三人の指導者が選んだ活動の拠点の位置を考察の対象として、とくにその社会的・政治的意味の一端について私見を述べてきた。それによると、彼らが、サルタナットの首都デリーにおいて、その修道と宣教との目的のためにまことに都合のよい地点を選んでいることが指摘できるように思われるのである。これらのチシュティー派の指導者たちは、あくまでも、その原則においては、支配層との直接の交渉を拒むという姿勢をとりつづけていた。彼らが拠点としたハーンカーやジャマーァト=ハーナの位置は、こうした原則を貫くためにふさわしい場所であったことはたしかに指摘できるのである。しかもなお、彼らは、直ちに非ムスリムのインド人異教徒のみの居住する地域へ入っていくことは避け、イスラムを信奉し、イスラムの宣布をその聖なる目的として掲げた征服者がサルタナットの首都としたデリーを選び、しかも、彼ら支配層がその宮廷を置いた区域とは距離を置きながらも、その中央からそれほど遠くない地点に自らの活動の拠点を構えているのである。このことは、これらのチシュティー派指導者たちが、その原則はともかく、同じイスラムの旗を掲げるムスリム軍事勢力の力を、その宗教的実践や、イスラムおよびスーフィズムの宣教の現実の場において、間接的に利用しようとしたことを示すものとはいえないだろうか。このような彼らの現実的な姿勢こそ、サルタナット首都たるデリー地域における彼らの宗教活動を成功に導いた一つの要因でもあったであろう。(p.632-633)


この指摘も興味深いものだった。

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