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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マルクス・ガブリエル 『なぜ世界は存在しないのか』

意味の場の存在論的概念で説明できるのは、数多くの意味の場が存在するほかないということと、それらの意味の場が互いに区別されるということだけです。しかしそれだけでは、どんな意味の場が存在するのか、それがどんな状態にあるのかを具体的に言うことはできません。それを言うには、存在論だけでなく、ほかのさまざまな学問、経験、わたしたち自身の感覚、言語、思考――ひとことで言えば、人間による認識の営みの現実全体が必要です。存在論からわかるのは、さまざまな意味の場がいずれも完璧に同じだとすれば、現実は、そのような結局のところ区別できない意味の場から成り立っているわけではない、ということです。そのつどどんな意味の場が存在するのか、そうした具体的な意味の場を列挙するのは、存在論ではなく経験科学の役目です。(p.127-128)


本書を読んで、意味の場の存在論で語られる「意味の場」は、形式的であり、実質を欠く印象を持っていたが、著者もそうした点についての認識は持っているようだといういことがわかる。ただ、意味の場の存在論では、いろいろな意味の場の間の関係性を十分に捉えられないように思われる。河本英夫のオートポイエーシスでは、感覚によって感じられることと、反省によって認識されることとの間には違いがあり、後者の方が派生的なものであることが示されており、そのメカニズムが説明されているのに対し、意味の場の存在論では、それらの関係性について説明されていないように思う。意味の場同士の関係性を認識したり秩序付けるのは、経験科学ではなく哲学の役目ではないかと思うが、もし、そうだとすれば、この辺りのガブリエルの議論は物足りなく思う。



わたしたち自身が日々している経験をあっさり跳び越えて、途方もなく巨大な世界が存在するかのように考えてはいけません。そのような世界には、わたしたち自身の経験を容れる余地がないからです。(p.141)


この辺りの発言は、ガブリエルが「世界は存在しない」と主張する意図ともかかわっているように思われる。



フェティシズムとは、自らの作った対象に超自然的な力を投影することです。そのような投影によって、ひとは合理的な全体に自らの同一性を統合しようとするわけです。何らかの仕方で理解することのできる全体の一部分として自信を捉えることができれば、自分は孤立せずに守られていると感じられて安心できるからです。(p.205)


最後の一文は、昨今目にするいわゆる「愛国主義」的な言説に完全に当てはまる。いわゆる「愛国主義」はフェティシズムである。つまり、「国家フェチ」といったところか。



 人間は、自身が何なのかを知りません。だから探求を始めるのです。人間であるとは、人間とは何なのかを探求しているということにほかなりません。ハイデガーは、これを特に鋭く定式化していました。「自己であることは、探求することのなかにすでにある発見物である」と。自らを探求することができるためには、わたしたちは、まず自らを失っていなければなりません。わたしたちの存在そのもののなかに、わたしたち自身にたいする距たりが組み込まれていなければなりません。いや、わたしたち自身の存在とは、つまるところこの距たりにほかなりませんこの距たりの最初の経験、この最大限の距たりの経験が、「神」ないし「神的なもの」として体験されるのです。したがって人間の精神は、神的なものという形態のなかに、じつは自分自身を探っているわけです。そのさい人間の精神は、自らの外部に探求している神的なものが、じつは当の人間の精神にほかならないということを知らずにいるのです。(p.224)


自分自身との距たりという考え方は参考になる。



 芸術の意味とは何かという問いに、また別の視点からアプローチしてみましょう。わたしたちが美術館に行くのは、美術館では、あらゆるものにたいして違った見方をするという経験ができるからです。わたしたちが芸術に触れるなかで学んでいくのは、「確固とした世界秩序のなかで、わたしたちはたんに受動的な鑑賞者にすぎない」という想定から自らを解放することにほかなりません。じっさい美術館では、受動的な観察者のままでは何も理解できません。訳のわからない、無意味にすら見える芸術作品を解釈することに努めなければなりません。何の解釈もしなければ、塗りたくられた絵の具が見えるにすぎません。それはポロックだけでなく、ミケランジェロでも同じことです。芸術の意味の場がわたしたちに示してくれるのは、さまざまな意味のなかには、わたしたちが能動的に取り組まなければ存在しないものもある、ということなのです。(p.244-245)


美術館鑑賞の意味は、現代のかなり多くの人にとって、確かにこうした点にあるかも知れない。



意味に直面する経験は、もちろん芸術や哲学でしか得られないわけではありません。そのような経験の宝庫として、旅行があります。といっても、商業主義的な意味での旅行のことではありません。商業主義的な旅行で問題になるのは、そもそも旅行ではなく、たんに気候条件のよいところに場所を変えて過ごすとか、絵葉書向けの写真を撮るといったことにすぎません。これにたいして本当の旅行では、なじみのない物ごとに触れる驚きを体験するものです。わたしたちとは異なる環境に暮らす人たちがしている多くのことは、わたしたちに疎遠・珍奇に映る。ほとんど意味がわからないことさえある。わたしたちは、その人たちの振る舞いを理解するように努めるほかありません。つまり、わたしたちは突然にして異なった意味の場に置かれ、その意味の場の意味を探求している状態にあるということです。これにたいして慣れ親しんだ環境では、わたしたちは何よりもまず対象に向かっています。(p.255)


哲学、芸術鑑賞、旅行、いずれも私が関心を持ったり好んで行ってきたことだが、それはガブリエルが指摘しているような共通の構造(日常とは異なる意味に直面する経験をし、その意味の場を探求するという)があるからであるように思われる。

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