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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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上山安敏 『世紀末ドイツの若者』

イスラムでは性的禁欲や宗教的理由による独身というものはないことからも、キリスト教の性への敵視性をもった傾向は、ヨーロッパの伝統の中に肉体的成熟を余り顧慮しないという特徴を浮かび上がらすだろう。
 しかもこの思考は、キリスト教がヨーロッパの教育体制を制度的に独占に近い形で掌握してきたことと関連してその意味の重大さが分かる。ヨーロッパの大学はいわば教会施設の分身として誕生し、育成されてきたからだ。宗教改革でドイツの大学は、たとえ領邦国家による帰趨によって左右されたとはいえ、カソリック系とプロテスタント系とに分裂した。世紀末段階でも、大学の宗教色はたんなる装飾でなく、信仰の核の部分では生きていたのである。これはウェーバーの大学論にもでて来るように、20世紀も10年代に、当時カソリック系の大学で一定数の非宗教的教授職にも事前の大司教の同意が得られなければならなかった。しかも、一元論同盟に加担した学者はローマ教会の反一元論勅令に従って大学から追放されるという夢のような話が現実にある。大学のみではない。青春期の若者の教育機関であったギムナジウムも、キリスト教の宗教的雰囲気に覆われていた若者の反体制志向が反国家より反キリスト教に向けられるという現象は、後のワンダーフォーゲルや青年運動の核心部にかかわっている。(p.132-133)


ヨーロッパの大学と教会の関係については、具体的にもっと知りたいところ。本書では、ヨーロッパの大学が教会施設の分身として誕生したということは何度か繰り返し語られるが、これが具体的にどのようなものだったのか、ということに興味がある。例えば、いわゆる近代の哲学などがキリスト教を問題にしなければならなかった理由はまさにこの問題とも深く関わっているのだろう。



プロイセンは修学期間を、医学部を除いて、6ゼメスター、3年間と決めた。それに対して南ドイツのハイデルベルクは法学部も含めて8学期制であった。日本も旧制大学は4年制であったが、京都大学が明治36年に改革して3年制にした時期があった。これはプロイセンのベルリン大学帰りの新進気鋭の少壮学者がベルリン大学にならって改革したのである。(p.146-147)


京都帝大の改革の背景には、留学先の違いなども影響があったということか。



転学の自由はドイツの学生の自由の特権である。これも中世の遍歴学生の名残りである。そのためにボン大学の大学生はハイデルベルクの学生より決闘技術で劣っていたので軽蔑的にそう呼ばれたのである。学生というのは、彼らの間で決闘技術の高低を基準にして大学間の格差と特色をつけていたのである。(p.147)


転学の自由があることがドイツの大学の大きな特徴だが、これも中世の遍歴学生の名残りというのは興味深い。もっとその経緯や過去にどのような状況だったのかなどを知りたい。



もともと大学はイタリアのボローニャ大学に見るように郷土の学生が一緒になった同郷団体から成り立っていた。だから各郷土がナティオンnationといった。ここから今日の「国家(ネーション)」概念を生んでいる。そういうわけだから伝統として郷土による組合が残っている。(p.148)


中世の大学と近代の大学との連続性と非連続性がどのようなものなのかということが、私が大学に関する歴史で知っておきたいと思っていることの一つだが、こうした断片的な叙述に触れる度に、もっと詳しく知りたくなってくる。



 学生は転学の自由があるから、学期によって転学する。以前は新しい大学に移るときは自由な選択が許されていたが、次第に学校間で、学生団体の内に「カルテル」ができて一定のカルテルのある学生団体の中では他の系列団体に移ることは許されなくなっていった。(p.150)


転学の「自由」とは言っても、完全な自由というわけではなく、人的ネットワークがここでも強く作用することになったことが分かる。リバタリアン的な自由というものは現実にはほぼ存在しないということがよくわかる。



 決闘の数は、19世紀の初頭のラントマンシャフトの全盛時代は多かった。たとえばイエナ大学では1815年の夏に400人の大学生の間に、1年間で147件の決闘があった。ところが死に至るのは僅かである。1820年になってメンズールという新しい形式になると、刀剣の決闘の危険度が少なくなり、あまり真剣な闘いとは考えられなくなると、それに従って騎士のスポーツと考えられるようになる。決闘のスポーツ化は、決闘が自然発生的に名誉を侮辱されたところから行なわれるというより、むしろ決闘によって名誉がかき立てられるという逆の現象になっている。(p.163)


興味深い推移。



もともと大学が教会の分身として出発しており、半聖職者の雰囲気が大学を覆っている。(p.173-174)


中世に教会の分身として出発したことが、世紀末になってまで半聖職者の雰囲気があるというのは、もしそうだとすれば、何らかの制度的な担保というかアンカーのようなものが必要であるように思われるが、それは何なのだろう?



ドイツでは大学ではなく、学生団体が学閥の社会的機能を果たすようになっていた。どうしてそうなったのか、それには前述したようにドイツの大学は学寮(カレッジ)制が発展せず、下宿制をとったために特有の大学街の居酒屋(クナイベン)を生んだ。これが学生組合の人間関係の母胎になっている。居酒屋は狭い、貧弱な居酒屋を意味していたが、学生の生活の主要舞台になっていた。不快な、刺激のない下宿に住む学生にとって、気持のよい便利な施設をもっている居酒屋に入りびたりになる。しかし居酒屋生活はどうしても飲酒強制になるし、悪習を生むことになる。そこで19世紀も20年代になると、学生団体のためにハイム(集会所)がつくられるようになる。世紀末には次々と学生団体はハイムを建てた。1904年には128の学生団体ハウスがつくられた。
 こうした学生の住居のあり方は、もともと大学の遍歴学生に遡るわけで、それは学生が一つの大学に定着せず、次々と他の大学へ遍歴することから来ている。これが、「大学の自由」が確立するとき、「転学の自由」=「勉学の自由(レルンフライハイト)」となって表現された。学寮制の発展したイギリスでは貴族の教育と結びついて大学が設立されている。オックスフォードにしろ、ケンブリッジにしろ、そこで得られる専門的知識が問題ではなく、大学への所属が重要な意味をもつ。さらに大学への所属性にとどまらず、学問、スポーツ、社交術を通じて人格形成を行なう学寮(カレッジ)の中で、チューター式によって結ばれた人間交友関係が生まれる。これがジェントルマン社会での学閥を形成する。これに対してドイツでは転学の伝統が、こうした学閥に代わる学生組合閥発生の基礎をつくったといえるだろう。(p.180-181)


興味深い。

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