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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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金田章裕 『30の都市からよむ日本史』

 一方で江戸には、世界の大都市と比べて先進的だった面もありました。それは上下水道です。江戸東部の湿地帯や埋め立てで拡張した区域では、地下水を得ることができません。そこで幕府は、神田上水や玉川上水など「江戸六上水」を拡充させ、市民の生活用水としました。
 ……(中略)……。糞尿は肥料としてリサイクルされたため、下水として放流されることはありません。当時の江戸は非常に清潔で、かつエコロジカルな都市だったのです。(p.78)


ロンドンやパリが汚物で満ちた都市だったことと対比しながら、どちらかというと「日本スゴイ」的な文脈も加味されながら語られることがある。(本書ではそれほどこのテイストはないと思われるが。)

確かに当時の江戸はこれらの点で称賛されるべき内容を持っていたと言ってよいと思われる。ただ、それが「日本スゴイ」の根拠になるかどうかは別問題だろう。このエコロジカルな都市がどのように近代の東京に受け継がれているのかどうかを考えなければならないし、「19世紀にはすごかった」ということと「21世紀に現にすごい」ということとは全く別のことであり、さらに、東京が仮にすごいとしても、「日本」がすごいかどうかは別問題だからでもある。



俗にいう「大江戸八百八町」という言葉は、4代将軍・家綱の時代に、ひとつの町(家屋数20~30程度の町組)につきひとりだけ営業が許された髪結い職人が808人いたことに由来します。(p.79)


これもどこかで聞いたことがあるようなネタだが、とりあえず、なぜ4代将軍の時代が基準になったのだろう?という疑問と共に書き記しておくことにする。



 震災後、帝都復興院と東京市は、地主層に土地の1割を無償で供出させ、新たな都市計画を実行に移しました。このときに建造されたのが、従来よりも広い幅員をもつ昭和通りや大正通り、永代通りなどの幹線道路です。また都内の各所には延焼を防ぐための緑地帯も設けられました。(p.80-81)


関東大震災後、建築に関してはレンガ造などの建築は姿を消し、コンクリート造などが普及していくが、ここで述べられているような都市の構成も他の都市に波及したのだろうか?波及したとすると、どの程度普及したのだろうか?興味がある。



 日本が大陸に進出した昭和初期には、満州への玄関口として定期航路が開かれ、多くの人員、物資が新潟を起点に往来しました。(p.129)


新潟と満洲の関係か。考えたことがなかったが、言われてみれば関係が深くても何ら不思議はない。もう少し具体的に知りたいテーマではある。



 それまで那覇の港は、大陸から仕入れた陶磁器や絹織物などを朝鮮半島や東南アジアに転売する一方、東南アジア産の香木や宝飾品を大陸に転売したり、日本の刀を東南アジアに転売して大きな利益を上げていました。しかし、交易の利益が薩摩藩に吸い上げられてしまい、幕府の方針で清以外との交易も禁じられたため、那覇は一時的に活気を失います。
 ところが、18世紀に入ると、近畿地方の廻船問屋が海運のネットワークを拡大して日本の北と南を結びつけ、蝦夷地(北海道)で獲れた昆布などの海産物を、那覇経由で清に輸出するようになりました。沖縄料理には炒め煮のイリチーなど、本来ならば南西諸島にはない昆布を使ったものが多いのはこのためです。(p.298)


沖縄(那覇)をめぐる明治以前の流通について、コンパクトに説明している。

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