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アヴェスターにはこう書いている?
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奥井隆 『昆布と日本人』

 江戸時代までは1艘の船は1年一航海が原則でしたが、明治時代に入り、年に3~4回の航海ができるようになりました。それは松前藩の入港制限が撤廃されたことによります。こうして北前船の船主たちは莫大な財をなしていきます。戦国船は19世紀から明治の終わりごろまで活躍します。(p.35)


なるほど。江戸末期から明治にかけて北前船の船主が物凄い勢いで富を蓄積していったのは、このような制度的というか政治的な条件もあったということか。



 つまり、昆布で得た莫大な利益が、倒幕資金となったのです。潤沢な資金が、薩摩藩を中心とした官軍(反幕府側)の軍事費となり、近代的な軍備を整えた新勢力が幕府を倒し、明治維新を迎えることになります。いってみれば、昆布が日本の近代化に貢献したといっても過言ではないと私は考えます。(p.41)


昆布ロードでの貿易において清と密貿易を行うことで、薩摩藩は藩の財政を立て直すことができただけでなく、軍備力増強のための資金にもなり、それが幕府を倒すことに繋がったというのはそうなのだろう。

ただ、明治維新をしなければ近代化しなかったかのような言説はやや割り引く必要がある。例えば、西洋式の城郭である五稜郭を建設したのは明治政府ではなく幕府であったし、幕府も西洋から軍艦を購入するなどのことはしていた。明治時代に西洋化が進んだからといって、後に明治政府を設立する薩長と対立していた幕府が旧守派や日本の伝統に固執していたに違いないと考えるのは恐らく誤りだろう。どちらも西洋化しようとしながら争っていたという見方をすることも可能である。実際、幕府はフランスとも通じていた。英仏の帝国主義の争いにおいて弱い側をバックにつけてしまったことが幕府の敗因かも知れない。



 右近家は江戸中期から明治中期にかけて大坂と蝦夷地を結んで隆盛を極めた北前船主です。幕末には日本海五大船主の一人に数えられ、最盛期には19艘の廻船を所有し、日清、日露の戦役には数隻を軍用に提供しています。
 ……(中略)……。
 右近家の歴史を振り返ってみます。北前船のオーナーとしてゆるぎない地位を築いたのは幕末期。(p.42)


右近家が幕末期にゆるぎない地位を築いたのは、松前藩が入港規制を緩めたことを(他の船主たちよりも)有効に活用したということなのではないか?



 そうした社会の変化のなかで、右近家は、近代的な経営へ向かうことになります。海運業を続ける一方で、最も関係の深い海上保険業への進出を図り、1896年に、石川県の船主・廣海家らとともに、現在の日本興亜損害保険株式会社の礎となった「日本海上保険会社」を設立しました。これはかつての北前船の難破や破損事故から、「保険」を切望した経験があったからこそ、保険会社を立ち上げたのではないかと思われます。(p.44)


北前船の経験にから他の北前舩主らと海上保険へとつながるあたりは、イギリスで船主たちが出入りしていたロイズ・コーヒーハウスで、ロイズ海上保険が誕生したことと似ている。

北前船の船主たちは手に入れた資本をもとにして、様々な業種に手を伸ばし、近代的な経営へと業種を転換していったのだろう。有力な船主たちを個別に調べていくといろいろと面白いことが見えてくるかも知れない。



 実際に、今に伝えられている「江戸料理」のだしは鰹節からのものであり、昆布はほとんど使わないといっていいぐらいです。昆布を使うとしても、日高昆布が主流です。私が東京で初めて商売をするようになった30年前は、築地市場でも昆布は日高しかありませんでした。
 その理由は昆布の流通の歴史に答えが見つかります。北前舩で蝦夷地から上方へ運ばれ、まず上質の昆布から売れていき、量が多かった日高昆布を上方から江戸に送ったのです。言い方は悪いですが、上方で売れ残ったものが江戸で消費されたということになります。(p.71)


なるほど。面白い。流通は地域の食文化にも大きな影響を与える。



 富山は1世帯で昆布を消費する金額と数量は日本一だといわれています。その背景にはやはり北前舩の寄港地だったことがあげられます。なかでも、羅臼昆布は、富山で最も多く消費される昆布です。北海道開拓時代、富山から多くの入植者が知床半島に移住し、親戚縁者にその羅臼昆布を送ってきたつながりが今も残っているからです。(p.117)


開拓のための移住と昆布の消費に関係があるとは、考えたこともなかった。



 琉球は定期的に中国へ貢物を送り、それに対して皇帝からの使節団により恩賜が与えられるという関係でした。その中国からの使節団をもてなすのが豚肉料理でした。使節団は400人、半年も滞在するのが慣例で、大量の食材が必要とされました。豚の飼育が奨励されたのをきっかけに豚肉料理が定着し、昆布と組み合わせたと考えられます。
 中国は、貿易の品に昆布を望み、琉球はその昆布を薩摩藩から手に入れ、薩摩藩は昆布の対価に中国から到来した薬種を求める……そのつながりが昆布と豚肉を結びつけたといっていいでしょう。(p.118)


これも興味深い。

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