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アヴェスターにはこう書いている?
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中川裕 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』

北海道で現在私たちが知っているようなアイヌ文化が成立するのは13世紀頃と言われており、本州で言うと、ちょうど平安時代から鎌倉時代に移った頃のことです。これはおそらく偶然ではありません。源頼朝が東北地方にいた奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府を樹立しますが、それは当時の中央政権が東北地方の端まで勢力を及ぼしたことを意味しており、蝦夷と和人(日本のマジョリティ:いわゆる「日本人」)の関係が大きく変わる要因になったことは十分に考えられます。
 13世紀以前に北海道にあったのは、擦文文化とオホーツク文化と呼ばれるもので、それぞれ擦文式土器とオホーツク式土器を使っていました。オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収されて、それが現在知られるようなアイヌ文化のもとになったというのがこれまでの定説ですが、アイヌ文化になったところで何が変化したかというと、なんとそれまで作っていた土器の使用を一切やめてしまったのです。これはすごい変化です。……(中略)……。その理由は、鉄製品が豊富に手に入るようになったからだと考えられています。
 ……(中略)……。このように豊富な鉄製品がどこからもたらされたかというと、やはり本州からというのが自然な流れでしょう。(p.55-56)


歴史の変遷は興味深い。さらに言えば、平安から鎌倉への支配層の変化は、大陸の動向(宋から元が支配する)とも関連しているのではなかったか。

土器を使わなくなったというのも興味深い。本書の説明では本州から来た鉄を使ったから、ということだが、もしそういう理由が成り立つのであれば、本州でも鉄で食器などを作ってもおかしくないのではないか?という疑問は生じる。このように、本書の説明には概ね納得はするが、多少の疑問はある。



アイヌの世界観も、カムイとの物々交換――つまり交易という考えを前提にしたもので、これは和人や近隣の諸民族との交易が盛んになってきてから、完成されていった考え方だろうと思います。(p.58)


なるほど。



 樺太アイヌの文化には北方の狩猟民との交流の結果として、彼らとの共通点がいろいろ見られます。網走などで、アイヌのお土産ということで、人の形をしたニポポ人形というものが売られていますが、これはニーポーポという樺太アイヌの玩具兼子どもの守り神で、北海道では一般的にはこのような人型の人形を作ることはありません。(p.59)


ニポポというとアイヌというイメージだったが、そういうものだったとは。



東北地方でも18世紀半ばまで、アイヌ語は生きていたことになります。(p.63)


この辺も興味深い。



 江戸時代に入るまでは、北海道のアイヌと和人は交易相手としてほぼ対等だったと思われます。それが変わってきたのは、1604年に松前藩が徳川家康から黒印状を受けて、正式に松前藩が確立してからです。当時北海道では米はとれませんでしたので、松前藩は俸禄の代わりにアイヌとの交易権を藩士の給与として分け与えました。これを商場知行制と言います。つまり藩士何某がアイヌ何某と独占的に交易する権利を与えたのですが、これはアイヌ側からしたらそれまでの自由貿易ができなくなったわけで、松前藩士の言い値で取引しなければならない土壌ができあがってしまいました。そこへもってきて、特にキリシタン禁教令によって逃れてきた本州からの移民が、アイヌの居住地へどっと入ってくるという状況が生まれました。そのおもな理由が砂金掘りです。「ゴールデンカムイ」という物語の背景は、その300年前から準備されていたのです。
 そのようにして和人への不満が募っていった中で、1669年にシャクシャイン戦争という、歴史上最大のアイヌ対和人の戦争が起こります。(p.63-64)


商場知行制がアイヌ側にとって意味した内容はよく押さえておくべきと思われる。



結果的にシャクシャインは和議といつわった酒宴の席でだまし討ちにあって殺され、アイヌ側の敗北となりました。
 これを機に松前藩はアイヌへの政治的・経済的支配を強め、享保・元文期(1716~41年)には場所請負制という体制が確立しました。それまでは藩士が直接アイヌと取引をしていたのですが、それをやめて、商人に運上金を納めさせ、その代わりに各「場所」(アイヌとの交易地域)の経営を商人に請け負わせるという制度です。利益を上げるために、商人たちは交易などというまどろっこしい方法はとりませんでした。アイヌの成人男女を漁場労働にかり出して、ニシン漁やイワシ漁などに従事させたのです。(p.66)


場所請負人について、北海道では各地域でかつて力を持っていた商人として比較的好意的に紹介されることが多いように思うが、彼らには陰の面もあったということを十分理解しておく必要がある。



私が感心しているのは、作者の野田先生が小樽の街を「治安が悪いけれど、金の匂いがする街」というイメージでお描きになっていることです。
 これは、歴史的には非常に正確な描写なのです。……(中略)……。
 ……(中略)……。他の地域では、たとえば「農地を開くために北海道に来ました」というように、特定の目的のもとで人々が入植したのですが、小樽だけは「小樽に行けば何とかなる」という思いでやって来た人が多い、非常に特殊な環境だったのです。(p.104-105)


この引用文は、小樽市総合博物館館長の石川直章氏によるコラム「小樽から見た「ゴールデンカムイ」」からのものである。

北海道に人を住まわせ、産業を起こさせ、ロシアの南下に対して備えようという当時の政策を実行するに当たり、最も重要な拠点の一つが小樽だったことが、こうした特殊な環境となった理由の一つだろう。国の政策が変わることで、こうした条件が一気になくなってしまったのが戦後の小樽であり、その変化が激しかったことが、古い町並みが残ることになった要因の一つだろう。
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