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アヴェスターにはこう書いている?
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橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その2)

筆者は、観光対象についての出発前の認識が、途中では確認・強化されるだけであり、終了後は出発前の認識を追認して終わると指摘してきた。観光後に語られる内容は出発前にあらかじめ提供された事例をなぞるだけであり、観光中の視線もすでに設定された枠組みのなかでしか焦点を結ばない。語りにはスタイルがあり、語り手はそのスタイルを踏襲する。観光者が現地の人々や現地の生活・文化を見て「何かを発見すること」を期待することは困難である。「語るように」または「語られたように」ものを見ること、そしてあらかじめ与えられた情報に示されたように見ることが観光の基本的特徴であるなら、それから抜け出ることは可能だろうか。観光にそれ以上のことを求められるだろうか。観光者が「語られたように」しか、または「与えられた情報のように」しか対象を見ず、新たな発見をしないという批判が現在もなされているが、その批判は観光に観光以上の要素を求めようとすることになる[橋本 1999: 120-121]と筆者は主張してきた。(p.93)


基本的にはこの指摘は妥当と思われる。ただ、本書でも後に指摘されると思うが、小さな発見は観光の中にも取り込み可能であり、その点を過小評価すべきではないと思われる。著者は観光と旅とを異なるものと定義しているようだが、観光のために出かけることを好む人の中には、この小さな発見を積み重ねることを楽しみにしているため、いろいろなところに出かけようとするという人も多いように思われる。

私の見立てでは、海外旅行については、2-3回程度するとやめてしまう人とハマってしまい度々行く人とに分かれるように見えるが、前者は「小さな発見」があまりできなかったため、最初の目新しさだけで終わってしまった人たちであり、後者は「観光の中の小さな発見」などの楽しみをある程度の数や重みをもって経験できた人なのではないか、と思っている。ただ、全体としては前者の方が数は多いと思われるため(データはないが)、観光者にあまり発見は求められないという点は妥当であると思われる。



民族誌家はあらかじめ仕入れた情報をいつでも白紙に戻す覚悟で、フィールドでの「発見」を第一に考える。自分の認識がひっくり返り、新たな世界を発見できるような経験がむしろ望まれている。しかし観光者が自らの認識をひっくり返るような経験を望んでいると考えるべきではない。むしろ「古い話を語るための新しい場所」を探していると考えた方が妥当である。(p.94)


対比としては誤っていないと思うが、民族誌家を含む研究者と言えども、必ずしも事前の情報を白紙に戻すことは好まない、というか、事前の仮説を正しいと思おうとするバイアスはかなり強いということは指摘しなければならないだろう。パラダイム変換という言葉が一時期流行ったが、同一世代の科学者の中ではこれはほとんど起こらず、世代交代の際に変わっていくということが科学史や科学論の著作で指摘されていたのが想起される。

ただ、研究者のフィールドワークでは新たな発見をしようという目的意識があるのに対し、観光者の観光にはその要素は少ない(ほとんどない)という点は言えるだろうと思う。私自身、自分が旅行中や旅行前後にしていることを人に語った時、「それは社会科学のフィールドワークじゃないか」と言われたのが想起される。(研究者である友人には、旅行中にも、「君との旅行はフィールドワークと同じだから楽しい」という趣旨のことを言われたことが想起される。実際、現地の人たちからも私の旅行中の振舞を見て、研究者か教育者だと思われたことが何度もある。)

個人的には、このような、発見をしようという目的意識を持つことは旅を楽しむ上で重要なポイントの一つだと思っている。



ある出来事を単なる事故で終わらせるか、観光の貴重な出来事とするかは、「導きのものがたり」を提供するガイドにかかっている。それがガイドの役割である。しかしガイドが万能であるわけではない。内容によってはブルーナーのインドでの事例のように、ガイドの能力を超える出来事に遭遇することもある。そのような事前の「ものがたり」と相容れない、それを圧倒するような出来事が生じたとき、全体を統辞論的に再編成して解釈の枠組みを提供するものは、経験者自身が時間の経過とともに自らの実存(生き方)と照らし合わせて再構築する新たな「ものがたり」である。それはもはや筆者が定義する観光の枠組みを超えた領域、「発見」をともなう「旅」の領域に入る経験となろう。(p.95)


ガイドには限界があり、それは観光者たちの事前の認識枠組みによって大きく左右される。このことはガイドする際にも参考になるように思う。観光者たちの枠組みがどのようなものなのか見極めて、そこから大きく外れない範囲で物事を紹介していきながら、トラブルには意味付けをしつつ、適宜、枠組みを軽く揺さぶっていく、といったことが良いガイドの一つのイメージのように思う。



ガイドは、民族的偏見を捨て、現地の人々にシンパシーをもって案内し、かつ現地に経済的貢献をするという条件には触れていない。この条件を満たしていれば、トラジャ人から先のような非難を受けることはなかったはずである。(p.108-109)


現地の人々にシンパシーをもって案内するという点は、ガイドにとって結構重要なポイントかもしれない。ただ、批判的な視点も多少は必要であるようには思う。とは言え、反感を持って非難をするのは、少なくとも観光者を相手にする場合には良くないとは言えるだろう。例えば、特に地域の負の歴史について説明する際に、ガイドの姿勢(共感・反感)は重要かもしれない。



観光者は自分なりの「確認」や「発見」を期待はするが、自ら構築した事前の「ものがたり」にそぐわない内容は受けつけない。観光では当初の目的を白紙に戻し最初からツアーを再構成することは、観光の失敗を意味する。ガイドは観光者の「ものがたり」に何かを付け加えることは可能であるが、「ものがたり」の構造を作り直すことはできないのである。(p.143)


ガイドの役割と限界として押さえておきたいポイント。

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