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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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宮本みち子 『若者が《社会的弱者》に転落する』

これらの「やりたいこと」という論理の帰結を久木元は次のように分析する。
 やりたいことは結局、自分の内部にしか発見できない。しかもその認定基準は厳しくなる傾向があって、ますます見つけにくくなってしまう。しかし社会は「やりたいこと」の選択を彼らに許す。しかし、「その選択に社会が責任を負わないしくみになっている」。その結果、「《やりたいこと》という《心理主義化》は、容易にシンプルな自己責任の論理に転嫁しうる」〔久木元、2001〕。
 選択の自由は与えられているが、現実に利用できる資源には格差がある。そのため選択の結果は、それらの格差を反映したものになることも明らかである。先述したライフコースの個人化と問題解決の私化という傾向と重なる指摘である。
 さらにまた、「何がやりたいことなのか」を自問自答するなかからは、やりたいものをみつけることはむずかしい。自分の内なる世界から出て、実際に体を動かすことを通してこそ、やりたいことはみつかるはずだ。社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾
 「やりたいこと」は実はかならずしも「できること」ではないし、できることに比べ「価値あること」ともかぎらない。だが、親も子もその呪縛にとらわれ、結果として現実逃避が続いていることに、問題の根があるのではなかろうか。(p.80-81)


主に90年代から00年代にみられたフリーターをめぐる言説についての分析だが、妥当である。「やりたいこと」という個人の欲求に問題を矮小化することは、社会全体として若者の働く環境の整備という課題を人びとの視野に入らないように妨害するものであった。そして、若者やその家族がこの「やりたいこと」の論理を当然のものとして受け入れることによって、社会が果たすべき責任が等閑視され、フリーターという選択は個人の選択であり個人の責任において行っていることとされた。

後段の指摘も全く同意見であり、現在でも進学や就職の際に同じような論理に囚われている者はそれなりに存在していると思われる。社会から隔絶された環境に置かれながら、「やりたいこと」を見つけ出すよう強いられる学生。この矛盾した状況を改善することは社会にとってもこれから進学や就職しようとする若者にとっても必要であると思う。



「家庭の教育力は昔より低下した」と、多くの人が信じているのだ。ところが子どものしつけの変遷を研究してきた広田照幸氏によれば、実は、現代の親のほうが子どものしつけに対する自覚はずっと高く熱心であるという(広田照幸著 『日本人のしつけは衰退したか』 講談社現代新書)。
 戦前から高度成長期にいたるまで、農村社会では、子どもの自然の成長や自覚を期待する放任的なしつけが一般的であった。……(中略)……。
 戦前から戦後のある時期まで、教育の課題とは、子どもに関心を払うことを親に勧め、子どもの教育にもっと熱心になるよう啓蒙することだった。大正時代、都市部のサラリーマンやインテリ層に登場した「教育する家族」、つまり、子どもの教育が主要な目標となる家族が、高度経済成長期を経て、全国・全階層へと広まり、今では多数派となっている。つまり、家庭の教育力は低下したのではなく、事実は逆だったのである。
 ……(中略)……。
 現代の家庭には、子どもが一人前になるために必要な多様な経験をする条件がない。……(中略)……。よその大人たちの影響を受けなくなったことは、子どもの環境変化を考える時、たいへん大きなポイントだと思う。
 ……(中略)……。
 低下したのは家庭の教育力ではなく、社会と家庭を支えてきたトータルな力のほうなのではないだろうか。(p.108-114)


概ね言われていることには同感である。家庭の教育力は低下したのではないという言い方は、若干の問題がある。このことを言う根拠として述べられているのは、家庭の教育力ではなく、家庭の教育への関心が高まっているということである。関心が高まっていることは必ずしも教育する力が高まっていることは一致しない。本書が言うように、現代の家庭には多様な経験をする条件がないのであれば、家庭の教育への関心は高まったが教育をするための条件は劣化したといったところであろう。

問題は、その責任は必ずしも家庭にあるわけではなく、社会の変動が要因となっているということを明確にしておくことだろう。家庭の教育力が低下したという類の、大雑把で雑な判断をしようとする人というのは、そのことを言うことによって、各家庭の責任にしようとしている。あるいは、各家庭の責任にした上で、各家庭の努力には期待できないので政府などの権力が道徳教育などに介入すべきだといった類のことを言おうとしていることが多いのではないか。本書の指摘している議論はこうした類のトンデモ言説に対して、それとは異なるあり方を事実に基づいて提示する方向性のものであるという点で共感できるものである。



 子どもたちは、家庭でも地域社会でも、何の役割も責任も課されない。だから、いつどうやって親離れをし、自立するかという道筋が見えない。(p.120)


既に別のところで「社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾」といったフレーズで指摘されていたことと同じだが、こちらの言い方の方が問題を解決に向けるヒントを多く含んでいる。つまり、子どもたちに社会の中での役割や責任を与えることによって、子どもの自立への道筋が見えてくるのではないか、と。



「私、四年制大学に行く。このまま就職するっていってもどうせアルバイトしかないでしょ?だったら大学でバイトした方が楽じゃん。それに親も四大の授業料出してくれるって言ってるし」
 彼女たちは、今という時代を直感的にわかっているのだ。大学は無業という暗い現実からの最終避難所となりつつあること、学校で学ぶことの積極的な意味など初めからないこと、学生と社会人の境界が薄くなっていることを。そして、いくらがんばっても先が見えないから、ほどほどのところで今を楽しく暮らす方がトクだという諦めがあるのだ。(p.155)


本書が出てから15年以上経ち、団塊世代の退職により就職難の時代が終わり、人手不足の時代が到来しているため、大学進学の意味は変わってきていると思われるが、それでも無業からの避難所としての大学という性格は現在でも残っているように思われる。



 親子が同居する期間が長くなっている弊害を克服するためには、子どもをときどき親元から引き離すしくみが有効であろう。友人同士の泊まりあい、田舎の祖父母の家への一人旅、夏休みのホームステイ、国内外留学、寮のある高校、合宿、寄宿舎、泊り込みの農業体験等、公私さまざまな「家から離れる」工夫が必要だ。(p.169)


この考え方は非常に参考になる。子供は高校生くらいになったら留学させるのが良いかも知れない。

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