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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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由水常雄 『ガラス工芸――歴史と技法――』

 たとえば、無色透明の窓ガラスやショー・ウィンドウのガラスを透してみる世界は、自分の立っている世界とは隔絶した別の世界であるような幻視性がある。そしてそのことが、われわれの空想を大いにかきたてる。科学的にこれを説明すると、無色透明のガラスは、光を最大限で92パーセント透過して、8パーセントを、反射その他の理由で拡散する。だから無色透明のガラスを透して見たものでも、約8パーセントほど見にくくなっていることになる。その見にくくなって不明の部分は、人間の頭脳が想像によって補正して見ているのである。そして、この想像による補正作用が、幻想性を生み出すのである。(p.5)


この説明が妥当なのかどうか、やや疑問は感じるが面白い説明だとは思う。ガラスに対してわれわれが持っている幻想的なイメージを何となくそれっぽく説明しているように思うからである。

ちなみに、疑問に思うというのは、科学的に説明するには単に物理学的な説明だけでなく、脳科学や心理学の知見を活用することが必要であると思われるからである。



イスラーム教の諸領主はもちろんのこと、ヨーロッパの諸君主たちからも、それは垂涎の的となっていた。今日、ヨーロッパの寺院や古い宝物のコレクションのなかに、イスラーム・グラスが金銀の荘厳具をつけた姿で、大切に保存されているのをみることができるが、それらは当時イスラーム商人によって、ヨーロッパにもたらされたほんの数少ない遺存例にすぎない。(p.24)


イスラーム・グラスに関する説明。ガラスに限らず、様々な文化についてここで語られていることは当てはまる。



また、13世紀頃より、十字軍の活動を契機にして興隆してきたヴェネチア共和国によって、イスラーム・グラスの技法が積極的に導入されて、ヴェネチアにおいて、西側世界では独占的に製作が行われるようになり、新たな発展段階に突入するのである。
 このローマン・グラスから、ヴェネチアン・グラスまでの空白の時代を、イスラーム・グラスは着実に受け継ぐとともに、それをさらに飛躍発展させて、西側へと受け渡していったのである。西側だけではない。東方へも技術を伝えて、中国人にガラスの製法や技法を教え、それがやがて、清朝のいわゆる乾隆ガラスとなって開花する種子となるのである。
 イスラーム・グラスは、このように、工芸史上、もっとも重要な貢献を果たし、技術的にも、エナメル・鍍金・レリーフ・カット・モザイクなど、新しい分野の開拓を行いつつ大発展を遂げた。いわば今日われわれが使っている大部分の技法を開発していたのであるが、わが国をはじめ諸外国でも、あまりその重要な意義が認識されていない。(p.25)


この叙述もガラスに限らずイスラーム文化全般において大体同じようなことが言える。



この島全体が、国家財政を潤すために働かされる永世強制収容所であり、奴隷島であったといってもいい。華やかなヴェネチアン・グラスの背景には、こうした過酷な犠牲を強制されていた人々がいたのである。(p.42)


有名なムラノ島についての叙述。この側面はマスメディアなどではあまり語られない側面であり、押さえておきたい。



そして、ちょうどヨーロッパ社会におけるイギリスの政治・経済的な優位性が確立して、こうしたガラス工芸の水準の高さをしっかりと支えていたこともあって、いわゆるイギリスのこうしたテーブル・グラスは、ヨーロッパ社交界の必需品となり、ガラス食器の形式をほとんど決定づけていくのである。
 今日われわれが使っているガラス類や、ガラス食器の原型は、ほぼ18世紀に、イギリスのガラス界が作りあげた原型をもとにしているといっていい。(p.63)


この点は、英語が現在の国際的な共通語となっていることと同じメカニズムが働いている。グラスの形にまでこうした経路依存性があるというのは興味深い。



19世紀に入ると、彫りの深いカットを施したテーブル・グラスが、イギリスのガラス工芸の主流となる。わが国の薩摩切子や江戸切子は、この時代のイギリスのガラス工芸から影響を受けたものである。(p.64)


交流を始めた当時の流行が入ってきて、その流行が本国で廃れた後も、影響を受け側の方ではある種の伝統として残り続けるというのもガラスに限らず様々な文化形象で見られる現象であり興味深い。



 中国においては、戦国時代のこうしたトンボ玉が作られた以前の段階には、特殊なトンボ玉への発展を示すようなガラス玉類の出土はなく、ガラスの出現は(微少な一、二の例を除いて)、この時が最初なのである。そしてその最初のガラスの形式が、こうした西アジア出土のトンボ玉と酷似しているトンボ玉なのである。しかも中国の戦国時代は、急速に西方文物を吸収した時代であり、殷代より伝統のあった青銅器の形にまでも、新しい西方的意匠が積極的に採り入れられていたのである。いわば戦国時代は、外国文化を積極的に吸収して、中国古代文化に活を入れて、大いなる飛躍をみせた時期であったといってもいい。これまで言われていたように、漢文化は中国古代文化の一つの頂点であったのではなくて、むしろ戦国の文化的高まりが、漢民族的に修正され、様式化された、いわばマンネリ化された文化であったとみるべきであろう。そのような文化摂取の時代に出現したこうしたトンボ玉は、素材の製作技術はもちろんのこと、その形式も技法も、外来のものであったと考えるべきである。(p.77)


トンボ玉の由来についての考察であるが、中国の古代文明論にまで議論が展開しているのが興味深い。また、漢代の文化に対する見直しを迫っている点も傾聴に値する。



 ガラス器類は、吹いて作ると、わずか数分間で瓶や鉢や壺や皿ができる。そして冷えて常温になるまでには、十数秒もたてば十分であろう。それは完成品と何ら変るところはない。しかしそのままでは、それこそ程大昌の記述しているように「手を隨れるによって破裂する」のである。つまりそのままでは、ガラス器としてはまったく使いものにならないのである。これが舎利容器のような薄くて、高さがせいぜい4、5センチのものならば、あるいはそのままでも使用に耐えるものもできるが、それ以上のものや、それ以下のものでも厚手のガラスは、すべてそのまま使うと、いつかは破裂してしまうのである。つまり、ガラスは急速に冷却するので、表面と内部との間に激しい温度差が生じて、それがガラスの中に歪みとなって残っている。したがって、ほんのちょっとしたショックによっても、このバランスがくずれて破裂を起こすのである。こうした歪みを残したままのガラス器は、まったく使用に耐えない。使えるようにするためには、この歪みを取り去ってやる必要がある。その作業が徐冷(なまし)である。作ったガラス器類を、一定温度に引きあげて、それの表面と内部の温度差ができないように静かにゆっくりと冷ましてやるのである。ガラスが作られはじめた大昔から、ガラスの窯には、必ずガラスを熔かす窯とこの徐冷窯がついているのは、このためなのだ。おそらく中国におけるガラス窯は、この重要な徐冷窯の部分が欠如していたのではないだろうか。そしてその流れを汲んだ朝鮮や日本の古代ガラス窯についても、それと同じことが言えるのである。(p.87-88)


ガラス細工を作った後、ゆっくりと温度を下げるため作品ができるまで1日とか2日くらい待たされることになるが、その理由が初めて分かった。

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