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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その3)
「職業としての政治」より

政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)、責任感(Verantwortungsgefühl)、判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄(ザッヘ)」〔「仕事」「問題」「対象」「現実」〕への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。それは、今は亡き私の友ゲオルク・ジンメルがつねづね「不毛な興奮」と呼んでいた、例の精神態度のことではない。……(中略)……。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。……(中略)……。
 だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離――この場合、自分自身に対する距離――にとって不倶戴天の敵である。
 ……(中略)……。政治家の活動には、不可避的な手段としての権力の追求がつきものだからである。その意味で「権力本能」――と一般に呼ばれているもの――は政治家にとって実はノーマルな資質の一つである。――ところがこの権力追求がひたすら「仕事」に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒瀆が始まる。政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に即しない態度と、もう一つ――それといつも同一ではないが、しばしば重なって現われる――無責任な態度の二種類にしぼられるからである。(p.596-597)



ここは、この講演で最も有名な箇所の一つだろう。この個所を読むとき、必ず私の念頭に現れる政治家がいる。安倍晋三である。彼ほどここで批判されている対象としてふさわしい政治家はいないと思われるからである。

事柄に即するというsachlichな姿勢は安倍には全く見られない。事実には即していないが自分の情念に従って教育基本法や憲法を変えることを願い、それを実行し、あるいは実行しようとしている。

責任についても、彼は常に権力の座に「へばりつく」。つまり、彼が取り組むには不適格な課題に立ち向かわなければならないときには、本来、潔く権力の座を去るのが「官僚」ではない「政治家」の責任のとり方であるにもかかわらず、実際には、彼が取り組むには不適格な課題(例えば、森友や加計問題のような彼自身が疑惑の根源である問題――彼自身が隠蔽するための最大の誘因を持っている問題――の事実を解明し、再発を防止する)を、自分(とその仲間)が解決に向けて取り組むなどと頓珍漢なことを言い続ける。(結果、事実の隠蔽が行なわれている。)

もちろん、判断力と訳されている「距離をとる感覚」など安倍にはみじんも見られない。周囲の人間もそのことを分かっているからこそ、事実を都合よく曲げることに意を注いでいるというべきだろう。森友や加計問題に関する追求に対する政府の応答然り、統計不正に絡んで経済指標を実態より良く見せようとしていたこと然り。安倍自身がどの程度細かく指示していたかは別として、彼自身はそのような願望を持っていることは、彼の言動からははっきりと見て取れるし、周囲の人間がそれに呼応して動いてきていることを否定する要素は何もない。(それに対して、そうしたことが起こったことを示す状況証拠はいろいろある。

政治における大罪として、その根源としての「距離を失ってしまうこと」、その結果としての「事柄の本筋に即しない態度(sachlichでない態度)」と「無責任な態度」。すべてが安倍の政治には当てはまっている。大罪しかない政治と言ってもよいかも知れない。大罪を犯したのであればそれ相応の裁きを受ける必要があると考える。(政権を交代し、安倍のやってきたことを検証することが必要である。自民党ではこれはできない。)



戦争の道義的埋葬は現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神(リッターヒッヒカイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」〔自己弁護の「倫理」〕によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実は双方における品位(ヴュルデ)の欠如を意味する。(p.600)


以前読んだときはこの件にはあまり引っ掛かりを感じなかったが、今回は強く共感した箇所。ここで言われていることは正しい。ここでの「倫理」は訳者の注釈によると自己弁護の「倫理」のことだというが、これを「歴史修正主義的なもの」と理解すると現代日本にも完全に当てはまる

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