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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その2)
「新秩序ドイツの議会と政府」より

民主化とデマゴギーとは切り離せない対をなしているが、これは――繰り返し述べるように――国家制度の種類とはなんの関係もない大衆を完全に受動的な行政の対象として扱うことがもはやできなくなり、大衆が大衆の立場から、なにかの仕方で重要な役割を積極的に果たすようになりさえすれば、民主化とデマゴギーのあの関係が成立するのである。現代の君主制も、事実それなりの仕方で、デマゴギーの道を歩んでいる。(p.428-429)


ヴェーバーが生きた時代は、デマゴギーの時代、現代のよりポピュラーな言葉で言い表せば、ポピュリズムの時代になってきていた。



あらゆる政治問題において軍事の権威が政治指導に従属すること、これは絶対に必要なことである。問題を政治的に決定するに当たっては、軍事状況にかんする軍事的権威の判断もまた、むろんつねに決定的に重要となる。けれどもこの判断だけで決定が下されるようなことがあっては絶対にいけない。(p.471)


第二次大戦へ向かう日本の失敗もこうしたものだが、第一次大戦の頃からのドイツもまたこうした状況があった。



 国民的な誇りとは、結局、国民を構成する者が――少なくとも可能性として――自国の政治の形成にどのくらい能動的に参画しているか、その程度の関数なのである。(p.478-479)


ここ10年か15年くらいの間、やたらと「誇り」という言葉が右側から聞こえるようになり、次第にそれが浸透してきているのを感じる昨今であるが、「国民的な誇り」というものがあるとすれば、確かに、ヴェーバーがここで言っているようなものであるべきであろう。

しばしば、「日本の技術」――これについては、「そもそもそんなものがあるのか?」と疑義を呈しておこう――や「日本の文化」なるものに対して、賛美した上で、「誇りに思う」などという言説が垂れ流されることがあるが、その時に常々思うのは、その発話者に対して「お前はそれを形成するにあたって、どの程度の積極的な貢献をしたのか?」ということである。自分が所属していたチームなり会社なり集団が、ある技術を開発し、自分自身もその開発にある程度の貢献をしたと自他に対して説明できる又は、それを認識している人々が説明をしなくても実感し、それを共感しているような場合、その技術の開発に貢献できたことに対し「誇りに思う」と言って差し支えない。しかし、何ら具体的な貢献もしていない人間が同じように言った場合は、「それはお前の功績ではない」と皆に一笑に付されるべきである。こうした政治的な思惑が絡んでいる言葉は、正しく使わなければ、認識がどんどん歪んでいくことになる。このことに危機感を持つべきであろう。



政治的に成熟した民族のみが「王者の民族(ヘレンフォルク)」である。「王者の民族」とは、じぶんの問題の処理にたいする統制を手にし、じぶんの選んだ代表者を通じて政治的指導者の選抜に決定的に参画する民族のことである。そうした王者の民族にふさわしいことがらを、この国民は――ビスマルクの偉大な政治的支配者精神にたいする反作用を介して――とり逃してしまった。ひとたび身を持ちくずした議会は、そうやすやすとは立ち直れない。(p.479)



王者の民族なるものが存在することや存在すべきこと――これはヴェーバー自身のかねてからの持論ではあるが――については、同意しかねるが、単に手続きだけでなく、また、単なる結果だけでもなく、実質的に民主的な政府を形成することができる人びとをこそ是とすべきという点では同意できる。残念ながら現在の日本の人びとはここでヴェーバーが言う意味での「王者の民族」ではない。上記引用文の最後の一文は現在の日本の国会にも完全に妥当する。



「職業としての政治」より

しかし「官僚」というものは、デマゴーグとして強い影響力をもつ個性的な指導者には、わりと簡単にくっついてゆくものである。(p.584)


今までこの講演は何度も読んだが、あまりこの指摘には注目してこなかった。今回はこの点に非常に共感するところがあった。現状の政治に対する感覚や知識が変わってくると同じものを読んでも見え方は変わってくる。

ヴェーバーは当時のドイツでは政治家としての立場の人間たちも「官僚」と同じように動いており、そのことを批判していた。したがって、ここでの「官僚」は行政官僚を示すものではなく、広義の官僚制的組織に属する官僚に当てはまる議論として語られていると見なければならない。

現代日本で私が強く感じるのは、自民党という政党(政党官僚組織を持つ)に所属する議員たちの言動が、ヴェーバーの言う「官僚」のようになっているということである。しかも、デマゴーグとして強い影響力を持っていなくても、制度的に総裁に権力が集中しているために個々の議員(党官僚)が組織に逆らいにくくなっているという点で、当時のドイツの政党(ないし、上記でヴェーバーが指摘する状況)よりも悪質なものとなっている点に危惧を覚える。



 ところで、このシステム全体はどのような効果を生んだか。今日イギリスの国会議員は、二、三の閣僚(と若干の奇人)を除いて、一般に訓練の行き届いたイエス・マンに過ぎなくなっている。ドイツの国会では、自分の議席の机でせめて私用の手紙でも書いて、お国のために働いているようなふりだけはしたものである。こんなジェスチュアはイギリスでは無用である。議員は投票だけして党を裏切らなければよい。事情に応じて内閣や野党の党首(リーダー)から出される指令をおこなうよう、院内幹事(ホイップ)から呼び出しがかかれば、何はさておき登院しなければならない。強力な指導者がいる時の全国各地のコーカス・マシーンはほとんど無原則で、完全に党首(リーダー)のいいなりになる。こうして議会の上には、「マシーン」の力を借りて大衆の支持を得た独裁者――事実上人民投票的な――が君臨し、議員はこれに追従する政治的な受禄者に過ぎなくなる。(p.586-587)


これはまさに現在の日本の政党のあり方と同じである。

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