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アヴェスターにはこう書いている?
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マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その1)
「新秩序ドイツの議会と政府」より

とにかく調査権があるというだけで、行政長官は調査権が不要になるくらい答弁に立つことを迫られる、調査権はそうした鞭のようなものである。この権利をこういう仕方で行使したところに、イギリス議会の挙げた見事な成果のもとがある。さらに、イギリス官僚層の廉潔もイギリス国民の政治教育の水準の高さも、そのもとは、主としてここにある。委員会の討議がイギリスの新聞とその読者層に監視される仕方をみれば、政治的成熟度を測る最上の物差しがえられる、とはよく言われることである。政治的成熟度というものは、不信任投票とか大臣弾劾とか、フランス・イタリア式の無組織な議会政治にみられるこの種のスペクタクル大興行によって示されるのではなく、国民が官僚層によって自分たちの用件が処理される仕方に通じていて、たえずそれを監視し、それに影響を与えるところに示されるからである。強力な議会の委員会だけがかような教育的効果の波及してゆく根拠地であるし、ありうるのである。が、官僚層そのものもこれによって究極的に得るところがあるはずである。(p.386)


ヴェーバーの持論がよく出ている箇所の一つと思われるし、現代日本の政治状況を考えるに当たって重要なポイントでもある。

官僚(行政)の権力の源泉の一つが専門知識にあることを喝破したことでもヴェーバーの議論は知られているが、ここでもこの指摘に続いて上記の引用文が述べられている。官僚層の専門知識や秘密知識を監視するための権限を議会に与えることが、行政による権力の暴走を防ぎ、適切な事務が行われることに繋がるというわけである。ヴェーバーのこの指摘は普遍妥当的な内容である。

現代の日本でも国政調査権などが国家(両議院)に与えられており、これに基づいて様々な質問がなされ、日々いろいろな事実が明らかにされている。こうした権利が極めて重要なものであることは疑問の余地がない。しかし、現代日本の政治の動きを見ると、ヴェーバーの議論だけでは物足りないと感じざるを得ない。

例えば、上の引用文で言えば、「強力な議会の委員会」と述べられている。ヴェーバー当時の調査権がない帝国議会の状況を考えれば、調査権があるというだけでかなり強力になるのは確かだが、形式上、調査権があるだけでは十分に強力な議会、強力な委員会とは言えないということは、現代日本の政治を見ると明らかである。日本のような議院内閣制を採用している場合、議会の多数派と内閣とはほぼ一体のものとなる(最近30年ほどでその傾向をさらに強化する方向で様々な政治改革が行なわれた)。この状況の下で、議会の少数派がどのような質問をしても、議会多数派と内閣が共謀することによって不都合な質問に対してはゼロ回答で済ませることができている。このようにならないような質問権の規定が必要になる。回答する側に質問者を納得させる義務が生じるようでなければならない。

また、視点を変えれば、質問権自体の問題というよりも、内閣が官庁に対して不当な政治介入をできない仕組みが必要である。象徴的な事例を挙げれば、2014年の内閣人事局の創設と森友問題における佐川元理財局長の答弁姿勢とは極めて深い関係があると見なければならない不正を望む政治家(内閣)からの不当な要求を官庁の側がはねのけることができず、むしろ、それに従うことで昇進などの可能性があるという期待が生じるような仕組みは廃止すべきである。官庁内部の人事は官庁内で行う方が遥かに適切な行政運営ができるはずである。少なくとも、議会の少数派からの質問であれ、多数派からの質問であれ、回答する際に生じる差別(与党には多く答え、野党には少なくしか答えない)は現行制度よりもはるかに少なくなると見るべきである。

ヴェーバーの議論に戻ると、現代の日本の政治は、政府による不誠実な答弁が常態化することによって、国民が「自分たちの用件が処理される仕方」についてまともに知らされることがないため、それに精通することが全くできず、監視できていないために、それに影響を与えることができなくされている。こうして、ヴェーバーの用語を使えば、政治的成熟度が極めて低い国民を温存することになっている。



 調査権のふくむ唯一の難点は国法学者の指摘しているところだが、この指摘は実質的な意味で注目に値する。国法学者はふつうつぎのように主張する。帝国議会は議事規則の運用について完全に自律的であるから、ときどきの多数派は一方的に調査を中止することもできるし、自分に不利なことが明らかにならないようなかたちに調査を運ぶこともできる、と。この(間接的に)イギリスの理論から無批判に取り入れられた議事規則の自立性(帝国憲法第27条)が、この権利〔調査権〕に適合しないことは明瞭である。むしろ、法的規範によって信頼性の保障がつくり出されるべきである。この権利は、――当然のことながら少数派の弁論・質問・参考報告等の請求権とともに――とりわけ無条件に少数者の権利として(たとえば100人の代議士が要求すれば行使できる)かたちづくられねばならない。この権利は、将来いつか実現しうるあらゆる議会主義的「多数派経営」と、それのもつ周知の危険にたいして、公開の対抗力――これは諸外国にはないものであって、イギリスでもこれまでは政党相互間の礼儀にもとづいてのみ存在したにすぎない――を提示するためにも必要である。(p.392)



ヴェーバーが国法学者の見解として指摘している事態(ときどきの多数派が一方的に調査を拒否したり、自分たちに不利にならないように調査を進るということ)は、まさに現在の日本の政治(特に安倍政権下における政治)で現実に生じていることである。

ヴェーバーはこれに対して、このようなやり方は適切ではなく、調査権は「無条件に少数者の権利」でなければならないとする。極めて妥当な見解である。例えば、日本の現在の政治では、野党がある人物の参考人招致や証人喚問を求めても与党が拒否することで実現しないことが多々ある。(逆に言えば、それらの人に事情を聞かれることは与党や内閣にとって都合が悪いと自ら認めているということであり、この場合、野党側が抱いている疑惑は妥当なものとして前提しても差し支えないと私は考えている。こうした拒否の姿勢を多数派が示すことにより、多数派の方が潔白であることを自ら示す義務が生じる。こうした考え方が一般化しなければならない。)こうした状況に対して、ヴェーバーは少数者がある程度の人数で求めれば、彼らの求めのとおりに質問ができなければならないとしている。日本の制度もこうした考え方を導入すべきである。



誰でも思いあたる無数の経験によれば、昇進をもっとも確実に保証するものは、装置(アパラート)にたいする従順の程度、つまり上司にとって部下がどれほど「重宝」か、その度合なのである。選抜というものは、概して天成の指導者の選抜ではまったくない。……(中略)……。これにひきかえ、公権力に到達する政治家、ことに政党指導者は、紙上で政敵と競争者の批判を浴びることによって白日のもとに曝されるのであり、彼は、おのれにたいする闘争のなかで、自分の擡頭の前提となった動機や手段が容赦なく暴露されることを覚悟しておかねばならない。だから冷静に観察してみれば、政党デマゴギー内部における選抜が――長い眼で大局をみるとき――官僚制の閉ざされた扉の奥で行われる選抜に比して、わけのわからぬ標識を基準に行われるものではけっしてないことが明らかになるだろう。(p.427-428)


官僚と政治家のそれぞれの選抜を対比し、閉鎖的な方法による官僚と比べ、公開的な方法による政治家の方が大局的に見れば適切であるとしている。政治家が批判にさらされるのは確かにそうだが、これが機能するためには、公衆の側にそうした批判の意味を理解する能力や判断のために必要な情報が行き渡っていることが前提されなければならない。また、この議論は組織票のようなものが持つ力を軽視しすぎている点にも留意する必要がある。それに、多数決は多数の選択肢からの選択方法としては必ずしも適切とは言えないことなど、社会的選択理論が示す諸事実にも留意が必要である。

つまり、政治家の選抜も制度設計が適切でなければ適切な政治家が選ばれないことが続くということは十分にありうる話であり、二世三世四世の政治家ばかりが誕生する日本の政治の選抜制度は明らかに官僚の選抜方式に劣ると言って間違いない。




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