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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マックス・ヴェーバー 『政治論集1』(その2)
「第七次のドイツの戦時公債」の訳注より

 1914年10月から戦時中のドイツ軍最高司令部は「最高統帥部」(Oberste Heeresleitung)と称された。最高統帥権は皇帝にあったが、それは名目だけで、事実上はその時どきのドイツ軍参謀総長がこれを行使した。……(中略)……。ドイツ軍最高統帥部に特徴的なことは、それが政府の管轄下に位置づけられていない点、それゆえ軍部が政府に干渉し得た点にある。(p.242)


具体的な制度上の類似がどの程度あったかは別として、同時代の日本の軍部が政府に対して干渉したり独走したりできてしまっていた点と似ているように見える。



「ドイツにおける選挙法と民主主義」より

あるいはむしろこう問うた方がよいならば、ある階層が――本質的に封建的(「貴族(アーデル)」であるか、市民的(「都市貴族(パトリツィアート)」)であるかにかかわりなく――、政治的意味での貴族として機能し、政治的に役立つにはどのような条件が必要だろうか。第一の条件は、敵から経済的攻撃をうけるおそれのないことである。貴族とは、――これがもっとも基本的な前提条件であるが――国のために生きることができるものでなければならないが、国によって生きるものであってはならない。(p.291)


この議論は、若干ニュアンスを変えて『職業としての政治』でも繰り返される。現時点の私はこの議論には懐疑的である。国(政治)によって生きることをヴェーバーは否定的にとらえ、国(政治)によって生きなくても生活できる経済的余裕があることが、国(政治)のために生きることができる前提であると考えているようである。しかし、そうだろうか?確かに「のために」と「によって」という言葉は反対の意味を持っていると理解することもできる。しかし、ヴェーバーの議論を見ると、「ために」は生活態度ないし内面的なものを指しているのに対し、「によって」は経済的な条件を指している。

経済的に政府による扶助を受けていても、その国にとっての善を実現しようと努力することはできるのではないか?また、経済的には国(政治)によって生きていなくても、そうした政治家によって自らの(富裕層ばかりの)生計の手段を守るような政治がなされるということは常に見られてきたことである(この点はヴェーバーも言及している)。したがって、言葉の上では「~のために」と「~によって」とは確かに対立的な意味を持つが、ヴェーバーの議論においては内的な意味で「~のために」が語られ、外的な意味で「~によって」が語られているため、意味内容としては対立するものではないにもかかわらず、あたかも対立的であるかのように語っており、この点で誤っている(不当である)と思われる。

なお、この区分による議論は、現実の政治家の動きとも合致しないため、理論的な枠組みとしても現状分析には堪えないと考える。



「国内情勢と対外政治」より

ストライキの起こりやすい雰囲気が作られたのはそんなことではなく、一、ドイツの外交政策がデマゴギー的なやり方で扱われ、立派な精神を持っているすべての人々から見放されるような全くの個人的動機から発するアジテーションが行なわれたためであり、二、この国の指導的人物、とくに軍隊指導者が受けていた信用という資本を使って、遠慮会釈のない党派的狂奔が行なわれてきたためである。
 冷静な戦争目的を冷静な話し合いによって労働者たちに理解させるのは決して難しいことではない。敵はそうやって成功しているのである。イギリスの大臣は皆〔労働者との〕討論の機会を探す。しかも――ここが〔ドイツと〕違うところだ!――多くの場合、労働者が、たとえ客観的にはどんなに不当な理由からであれ不信を抱いている時に、あるいはストライキで脅かしている時に、そうするのである。イギリス政府が、ひどい物資の欠乏状態にありながら、しかも外国の、それも(エルザス)併合という戦争目的に対してこれまで労働者の戦争意欲を維持することに成功していることは、何といっても、「民主的な」やり方のよさを明瞭に物語っている。それは信頼の成果なのであり、この意味で「民主的な」国家は――たとえ「民主的」という言葉がわが国では極めて不快な感じで受けとられるとしても!――そうした信頼によって、外交上決定的な時点で「より強力な」国家であることが証明されている。(p.323)


前段の記述は、第一次大戦当時のドイツにおいてポピュリズム的な状況があったことを推察させる。ヴェーバーはこうした状況下で「デマゴーグ」(デマゴギー)や「カリスマ」といった概念を使用していたということは押さえておくべきところだろう。

後段はイギリスの政治を持ち上げつつ、ドイツの政治状況を批判しているが、民主的な討論や説得によって人々の納得の度合いが上がり、国全体としての意思が政府によってより強く代表されるようになることについての指摘として読むと、現代の日本や大生の国の状況を考える上で参考になる。

例えば、果たして現代の日本の政治、特に安倍政権下での政治において、このような討論や対話や説得といったものがあっただろうか?2月24日に行われた沖縄の住民投票(辺野古への基地移設の是非が問われた)に対する安倍政権がとってきた態度はいかなるものだったか?口先だけの空疎な「沖縄の民意に寄り添う」という発言だけが繰り返されつつ、実際には民意を一顧だにせず政府の意思のみを貫徹しようとする。しかも、沖縄県に対して法を曲げて審査請求をするという暴挙まで行って、といった状況を見ると、現代日本にはヴェーバーがここで述べているような意味での「信頼」は存在できず、民主的国家の強みというものも全く見当たらないと言わざるを得ない。

その弱さを補強するために行っているのがメディアへの牽制とコントロールである。情報統制によって政府に不都合な情報を流させないようにする。こうして、人々を事実から遠ざけることによって、政府がでたらめなことをやっていても、人びとがそれに気づかなかったり、問題意識を持つこと自体が妨げられるため、反発を受けにくくする。現在の日本の政治の運営はおおよそこのような状況であると言えるだろう。

ちなみに、ここ数か月にわたり議論されている毎月勤労統計などに関する不正や政治介入の有無についての議論も、これまで出てきている情報から見て、統計が不当な状態であることに付け込んで政権にとって都合の良くなるような政治介入も行なわれたと見るのが自然であろう。だからこそ政府は事実を隠そうとし、情報を出さないようにしている。森友・加計問題でこの方法が政府としては成功したと捉えているので、同じ手法を使っているという点には留意すべきである。安倍政権にとってはあのやり方が都合がよいのである。つまり、疑惑は事実だと見るのが妥当であって、本来は疑惑が事実ではないことを証明する責任は政府の側にある、という考えが人々に共有されなければならない


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