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アヴェスターにはこう書いている?
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キリスト教史学会 編 『マックス・ヴェーバー「倫理」論文を読み解く』

 福祉分野にかんするエスピン=アンデルセンらによる近年の研究では、実証研究に基づいて、いわゆる社会国家型の北欧諸国、それに対する自助・国家不介入のアメリカ自由主義型、さらに大陸西方ヨーロッパ型(オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス)としての類型化が見られます。宗派的に見れば、北欧では早くからルター派国教会が確立し、教会に代わって領邦が福祉を提供する仕組みが発展し、国民は国教会教区の福祉に信頼することができたので、北欧では結果として現在まで税金による国の福祉が続いています。一方、大陸西方ヨーロッパでは、カトリック、複数のプロテスタント宗派と人文主義的伝統(市民自治)が混在し、多数の中間団体が生まれて福祉を担い、国家はそれらを補完する形で福祉に関与することになりました。……(中略)……。
 こうして宗派状況と社会福祉の在り方の関連が確認できましたが、そのカギとなったのは西方ヨーロッパを「宗派混在地域」ととらえたことにあります。これはヴェーバーが暗にそれぞれの「国」に当てはめた宗派性とは異なっています。明示的に述べていなくても、ヴェーバーにとってドイツはルター派、オランダとイギリスはカルヴァン派の国ではなかったでしょうか。宗派が「混在」しているととらえるようりも、本質をなすであろう宗派性を割り当て、そこから理念型を導く方向をヴェーバーは選びました。(p.109-110)


福祉分野の研究成果から示される「宗派混在地域」という見方から適切な類型化ができている事例をベースに、ヴェーバーの「倫理」論文における理念型構成の選択を批判している。確かに、ヴェーバーは明示的には言及していない(そのため擁護しようとする側からはある程度理屈をつけて部分的に擁護することもできてしまうかもしれない)が、ドイツの後進性のようなものを示すためにルター派が「資本主義の精神」の推進力にはならなかったことを使ったことなど、「国」に「宗派」を割り当てて考えている捉えられる叙述はかなりあると思われ、適切な批判であると思われる。

本書では、ヴェーバーが宗教の教義や各教派の特徴づけなどについていろいろと誤りを犯していることが明らかにされている。それはそれとして重要なことであるが、理念型という方法論の持つ問題性を明確化することも必要だと思われる。理念型という方法論には曖昧さがあり、それを利用することでいろいろな擁護の仕方ができてしまうところがある。描いている事柄が事実と違っていても理念型構成なのだから問題はない、少なくとも直ちに否定はされない、といった類の反論もいろいろな場面で使えてしまう理論になっていることは問題があるように思われる。



 今日のメソジスト史研究が共有する歴史的実態に照らし合わせれば、ヴェーバーが描いたウェスレーやメソジスト派の像は、数々の「間違い」だらけだと指摘されても仕方ないです。しかし、この種の「間違い」を理由に、短絡的に「倫理」テーゼを学術的に評価に値しないものと捨て去ることはできません。なぜならば、ヴェーバーは、歴史学などの従来の学問の手法では明らかにできないものを過去の世界から抽出するために、独自の「理念型」を作成し、そのために複雑な歴史を意図的に単純化・純化させたと主張しているからです。絵画で例えるならば、写実的画法には不可能なものを表現しようとしたピカソのキュビスムの画法に似ています。キュビスムの挑戦を、写実的画法の評価基準に照らし合わせて無価値とすることは滑稽だと思います。(p.128-129)


基本的にこのスタンスには共感できる。ただ、この挑戦の意味やヴェーバー自身の挑戦がどの程度成功しているのかを明確化するためも、理念型という方法論の「妥当な使い方(あるいは構成の仕方)」と「不当な使い方(あるいは構成の仕方)」のようなものを腑分けする必要があるのではないか、このような問題意識が本書(だけではないが)を通じて自分の中で高まってきた。



 アレヴィ・テーゼと歴史実態との一致をめぐる論争は、ヴェーバー・テーゼと歴史的実態との一致をめぐる論争と一つの本質的問題を共有しているように思えます。双方とも、個々のメソジストの歴史研究の結果で得られたテーゼではなく、哲学や社会学の研究用にいくつかの類型やフレームワークを便宜的に設定し、それらを用いて展開された推論の結果で得られたテーゼであり、これらのテーゼの賛否をめぐって他の学者が哲学や社会学をはじめ神学や経済学などさまざまな分野の類型やフレームワークを加えながら議論を展開するにつれ、歴史的実態からますます遊離してしまうといった事態に陥っています。(p.140)


実態に即しながら、少なくともそれを視野に入れながら議論をすることは確かに重要だと思われる。それを欠いた議論は不毛なものになってしまうリスクが高い。

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