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アヴェスターにはこう書いている?
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野﨑敏郎 『大学人ヴェーバーの軌跡――闘う社会科学者――』

当時のドイツ諸大学の法学部は、全体として、こうした法学・国家学部への改組に向かおうとしており、同時期の1897年には、自由保守党によって、ベルリン大学におけるこうした改組が提案されていた(Lindenlaub 1967:69)。その理由のひとつは、ともすれば左翼の巣窟ともみられてきた国民経済学部門ないし国家学部門を、一般に大学のなかでもっとも保守的な法学部に編入することによって、左翼教授の動きを牽制しようとする配慮である(上山安敏 1978a:162)。(p.39)


本書を読んでつくづく感じたのは、当時のドイツの大学が行政から独立していないこと、特に人事や組織の面で独立性がないことがいかによくないか、ということであった。ここで指摘されていることなども、それを示すものである。学問の自由や思想の自由などといったものよりも、ある種の党派性というか一部の統治者側にいる人びとの利益が優先される。しかも、このように扱われるのが教育機関でもある大学であるという点に大きな問題がある。



ほぼ同時期に、南および西南ドイツの諸大学が国家学系や自然科学系の学部を設置していくなかで、フライブルク大学は、学部の数こそ一定(四学部)だが、けっして古典的構成のままだったのではなく、内部に大きな変動を生じさせていたのである。その渦中にいたハインリヒ・リッケルトは、まさにこの変動の最中に『自然科学的概念構成の限界』を書きつづけている(Rickert 1896/1921)。彼にとって、文化科学と自然科学とをめぐる方法的問題群は、自分の所属する学部の改組をめぐる焦眉の課題と不可分に結びついているのである。(p.40)


西南ドイツ派が科学論的な議論を展開したことの背景には、当時の大学の改組などの問題があったと理解しておくのは重要と思われる。



ハイデルベルク大学は、大公フリードリヒⅠ世自身を名誉学長に戴くバーデンの最重要大学であって、フライブルク大学とは別格の存在である。また教授の待遇や、ドイツにおける大学教授のリクルート経路を勘案すると、ベルリン大学に次ぐ高ランクの大学でもある。(p.60)


日本のような大学が個別に入学者を選別するシステムを採用していると、いわゆる「良い大学」には多くの人が入りたがる傾向が出るので、序列が目に見えやすいように思うが、ドイツの大学は入学のシステムなどが日本とは全く異なる中で、どのような経緯や基準によってランク付けがされてきたのか興味を惹かれる。



 ヨハン・カスパル・ブルンチュリは、1877年の学長講演において、学部改組の問題を正面から取りあげ、その方針を明示している。
 彼は、学部区分には、学問的な根拠だけでなく、実務的な根拠もあることに注意を促している。神法医の三学部が、聖職者・法曹・医師養成という職業教育学部(Berufs-Facultäten)の性格をもつのにたいして、哲学部は、①一般研究と②他の三学部における専門研究のための予備教育という二つの性格を併せもっていた(Bluntschli 1877:5)。ところが、官房専門学校の編入によって、哲学部内にも職業教育(官吏養成)の色彩をもつ領域が存在するようになり、哲学部の変質が始まったのである。彼は、19世紀において、国家学と自然科学とにかかわる諸事情が一変した以上、それが学部区分にも影響を及ぼすことは不可避だと喝破する(ebd.:18)。(p.86)


職業教育と大学の学部編成との関係という観点は興味深い。



レクシス、ヴィンデルバント、リッケルト、ヴェーバーらが、自然科学との対比において社会科学ないし文化科学を再定義しようとこころみたのは、ある意味では、西南ドイツにおける自然科学系学部の勃興にたいして、哲学部残留組がみずからのレゾン・デートルを賭けて挑戦した行為だと解釈できる。(p.92)


なるほど。これらの議論は哲学部の側からのリアクションとして理解すべきものということか。



 彼は、これらの論考において、その時々の政情と大学をめぐる情勢の推移に即して、大学と大学人のありかたを考察している。こうした大学問題への取り組みが1908年以降にとくに顕著であることには理由がある。アルトホフは前年秋に引退し、この1908年に死去する。この傑出したアカデミー・カリスマがいなくなると、プロイセンの文部行政官はさっそくベルンハルト事件を起こし、大学人事への無分別な介入をすすめていく。こうしたアルトホフ以後のアルトホフ体制の問題性こそが、ヴェーバーがもっとも危惧したものであった。(p.245)


アルトホフ体制は確かに問題だが、その前提となっている文部行政が大学人事の決定権を持っているという制度が当時のドイツの大学の根本問題であると思われる。

大学という教師や学生の組合という意味合いを持っていたはずの組織である大学が、いかにして文部行政の下部組織となったのか。ドイツの大学の歴史について、是非知りたい。また、他の国、イギリスやフランスなどではどうだったのかといったことも含めて理解を深めたい。



 教壇禁欲という行動準則は、社会科学と現実政治との関係が大きな転換点を迎え、また社会科学と自然科学との再定義、および科学の方法の再検討が必要となっている過渡期においてこそとくに求められる。ハイデルベルク時代後期からミュンヒェン時代にかけての彼は、この見地から、体系的カズイスティクと比較史的研究とを広範に展開し、社会科学的分析に専心する大学人(教師と学生)と、それを会得して現実政治に向かう個人とを峻別するとともに、この両者をひとつの人格に結びつけようとした。(p.311)


多くの人々を魅了してきたマックス・ヴェーバーという人物の魅力の一つは、この辺りにあるように思う。



 ヴェーバーのハイデルベルク大学への招聘は、19世紀末における経済学者の世代交代の象徴的事例であった。前任者であるクニースが、後任として哲学部が推挙したクナップ、ビューヒャー、ヴェーバーを拒否し、彼らを激しく罵ったことについてはすでに述べた。いわゆる旧歴史学派と新歴史学派との関係については、「新」の側からみて「旧」をどう批判しどう克服したかという文脈で語られることが多かったと思われるが、1896年の人事紛糾事例は、「旧」の側から「新」をどうみていたのかをしめす貴重な例である。(p.314-315)


ヴェーバーのハイデルベルク招聘についての理解はその通りと思われる。また、新旧歴史学派の関係についての叙述も、今まで私が接してきた限りでは「新」から「旧」を見るものばかりだったので、その通りであると思われる。

ただ、クニースの側からの新歴史学派に対する反応を見ても、その低い評価は見ることができるが、「旧」にあって「新」に欠けているものが何であると考えられていたのかは示されていない。その辺りが分かるともっと面白いのだが。



したがって、この1907年を画期として、<アルトホフアルトホフ体制>と<アルトホフなきアルトホフ体制>とを分けて考えなくてはならない。アルトホフ個人は、ある種のカリスマとして、その低い職位・権限にかかわらず、プロイセンのみならずドイツ全土の大学人事に絶大な発言権・決定権を保有しつづけた。彼個人についてみると、その人物評価の異常なまでの厳密性・即物性――とりわけ辛辣な人物評価――、各大学にたいするプロイセン文部省の優位の確保、各国文部行政担当省間の確執のなかで他国の省を屈服させていく手腕、ユダヤ人であろうとカトリックであろうと、プロイセンのために有用な人材なら大胆に登用・重用する開明性――こうした諸点で傑出していたことは疑いなく、<アルトホフアルトホフ体制>は、見識あるアカデミー・カリスマ官僚の独裁だったと評価できる。むしろユダヤ人排斥等は各大学教授団のほうが露骨だったのであり、この点から、ヴェーバーがしばしばアルトホフを高く評価しているのはけっして遁辞ではないことに注意しなくてはならない。(p.319)


この辺りの整理は非常にしっくりきたところ。本書を通して、ウェーバーとアルトホフ体制との関係もかなりクリアに見えてきたように思う。

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