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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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熊谷正吉 『改訂 樺戸監獄 「行刑のまち」月形の歴史』

 しかし、樺戸集治監は偶然に設置されたのではなく、維新後の明治7年(1874年)の佐賀の乱、明治9年(1876年)の熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、そして明治10年(1877年)の西南戦争などの落とし子と言った方が適当かもしれない。
 明治新政府が誕生し、国内の行政機構が着々と整備されつつあったが、政府の施策に対して、士族階級などの不平不満が内乱となって現れ、そのためおびただしい国事犯(政治犯)を生む結果になった。(p.18)


明治政府に対する反乱により生じた大量の国事犯を収容するため、樺戸を含む集治監の設置が必要となった。

内乱といっても、そもそも明治新政府自体が武力を背景としたクーデタによって権力を奪取しただけの集団でしかなく、選挙のような民主的な制度もなければ、憲法による立憲主義的な権力の抑制もなかった。つまり、明治政府は国民を代表するわけでもなかった上に、恣意的に権力を行使することがかなりの程度できてしまう状況の下にあった政府であった。このような支配の正当性に欠ける政府に対して抵抗が行われるのは、ある意味では避け難かった。国事犯などと言うと極悪人であるかのような印象を与えてしまうが、明治政府から見て都合が悪い人であるに過ぎないことは押さえておきたい。



なお大倉組が北海道で工事を始めたのは、この樺戸集治監の建築が最初であった。(p.23)


明治時代の大倉組というとどうしても「死の商人」のイメージが強い。集治監が上記のように政治犯の増加に伴って必要になったという点から見ても、「明治政府の御用商人」ぶりがはっきりとわかる。



 この沿線の美唄、滝川、深川、旭川(永山)に屯田兵が逐次、入植して、道央地帯の開拓が急速に進んでいった。これは上川道路開削のおかげといっても過言ではない。(p.60)


明治22年に完成した上川道路(樺戸と空知の集治監の囚人たちが工事を担当した)。その沿線に屯田兵が入植していった。これらの土地は現在の札幌・旭川間の特急列車の停車駅とも重なっているのは興味深い。



 幸い私は昭和19年3月、月形村役場に書記補として奉職し、兵事戸籍係を担当していた。終戦と同時にその筋の達しにより兵事関係の書類はいっさい焼却処分にするよう、また村の兵事戸籍主任からは、ついでに保存年数の経過した古文書も同時に焼却するよう命じられた。(p.82)


都合の悪いことは証拠隠滅を図る。戦後を否定し、戦前戦中を肯定しようという志向を持つ安倍政権の下で、様々に公文書や情報を隠蔽したり改竄したりといったことが起きていることと重なって見える。



 建物は寄棟造りで下見板張り、窓は上下に開放する様式になっており、豪雪地帯のため床が高く、また寺院風に屋根のひさしが異状に長く、したがって内部は暗く日中でも電灯を必要とする。(p.121)


現在も残る樺戸集治監の建物について、私が見た時に非常に特徴的だと思ったものの一つが、庇の張り出しの大きさであった。豪雪地帯だから冬に窓ガラスが割れないようにしようという配慮なのだろうか?あるいは、当時の大規模建築というとやはり寺院建築が多かったと思われるが、そこから転用してきたのだろうか?



 定刻近くになり看守の手により各監房がつぎつぎ開錠され、出房の号令をかけたにもかかわらず、一人大須賀のみ従わず、屁理屈を言い看守に反抗したため、里見看守は木刀で一撃、あえなく彼は絶命している。(p.191)


現代から見ると異様なまでに人権感覚が欠如している。これが明治の初期というのならまだわかるが、大正2年になってもこのような状況だったというのは、やや驚きですらある。

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