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アヴェスターにはこう書いている?
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松沢裕作 『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』

 このように借金をした農家にとって、いきなり物価が下落してしまうと、大変に困ったことがおこります。予想に反して収入が減ってしまうので、お金が返せなくなり、土地が人の手にわたってしまうのです。養蚕農家ばかりでなく、土地を担保としてお金を借り、一時的に生活を支えていた農家はたくさんありました。そうした農家は、インフレーションからデフレーションへの突然の変化によって、自分の土地を失ってしまう危機に直面したのです。彼らはいわば、日本経済全体の激しい動きにまきこまれてしまったわけです。この時期、一方には多くの土地を自分のものとし、その土地を他人に貸して収入を得る地主が、一方には自分の土地を失い、他人から土地を借り、小作料をしはらって農業をおこなう小作人の数が増えます。「地主制」と呼ばれる、第二次世界大戦前の日本を特徴づける農業の在り方が、この時期に定着したのです。(p.12)


大隈の積極財政からいきなり松方の緊縮財政へと転換したことにより、インフレからデフレに一気に政策が転換されたことから、地主と小作が増え、「地主制」が定着した。地主制も何となく江戸時代以前からあったかのような「伝統」のように見えてしまうことがあるが、これも「創られた伝統」の一つと言えなくもないように思われる。



 設置まもない1874年6月、内務省は、政府の最高意思決定機関である太政官(現在でいえば内閣に相当します)に、恤救規則制定の提案をおこないます。しかし、内務省の当初の考えは、この規則は内務省の内部の規則にとどめ、一般に知らされるものにはしないというものでした。困窮者の救助について、各地の府県から個別に問い合わせがあった際に、この規則に照らして内務省が判断する、という手続きが考えられていたのです。これには大蔵省(現在の財務省に相当)が異論をとなえ、太政官はこの規則を、各地の府県に明示するという決定を下します。この結果出されたのが恤救規則なのです。
 内務省の当初の考えと異なって、規則は秘密にされたわけではありません。しかし、規則の存在が周知されたのはあくまで府県までです。国民一人ひとりに「こうした制度がありますよ」と広報されるようなことはありませんでした。(p.50-51)


現在の生活保護法でも行政側のスタンスは方向性としては変わっていないように思われ、興味深い。ある意味では、この時代からの流れを引きずっているように思われる。現代日本の政府の動きを見ていると、憲法によって政府の対応が縛られていなかったとすれば、生存権などの基本的人権が国民の権利として認められることもなく、また、制度が国民に周知されることもないだろう

憲法というのは、このように広義の政府を規制するためのものである。安倍晋三などが度々言うような「国家の理想を語るもの」などではない。少なくとも、それが主要な役割であるなどということはあり得ない。



江戸幕府の最後の将軍徳川慶喜は、10月に、政権を天皇に「返還」する、「大政奉還」をおこないました。いきなり政権を返すといわれても、天皇・朝廷も困ってしまいます。……(中略)……。
 徳川慶喜のねらいは、一度天皇に政権を返還する姿勢をしめしたうえで、新たにつくられる政権のなかで、自分がふたたび重要な地位を占めるような流れをつくることにありました。
 この慶喜のねらいを打ち砕くために、薩摩藩の大久保利通や、公家の岩倉具視が主導しておこしたのが、12月9日のクーデターなのです。徳川慶喜をなんとしても新政権から排除したい大久保らは、この日の夜、軍事力によって、天皇が住んでいた京都御所の門を封鎖し、慶喜の勢力を御所周辺から追放しました。そして、「王政復古の大号令」という命令を天皇の名で発し、慶喜抜きの新政権を強引に成立させたのです。
 こうして成立した新政権には、カネがありません。単に「自分たちは新しい政府だ」と名乗っただけなのだから当然です。やがて、新政府と、旧幕府勢力の一部は軍事衝突をおこし、内戦が勃発します。戊辰戦争です。この戦争を担ったのは、新政府の直轄軍ではなく、新政府への支持を表明した各藩の軍隊です。各藩の軍隊の費用は各藩もちです。足りない費用は、新政府が大阪の商人から無理やり借りたり、取り上げたりしてまかないました。
 1869(明治2)年になると、旧幕府勢力の抵抗はすべて抑え込まれ、全国が新政府の統治のもとにはいります。首都は東京に移りました。しかし、この時期にはまだ各地の藩は存在していました。そして、各藩が領民から取り立てる年貢は、各藩の収入になり、政府の収入にはなりません。この点は江戸時代と変わりません。新政府が引き継いだのは、おおよそ旧幕府の直轄地からの収入だけです。
 1871(明治4)年7月、新政府は廃藩置県を断行します。江戸時代以来の藩を廃止し、全国に府県を置いて、国土のすべてを政府の直轄地としたのです。これによってようやく、全国からの年貢が政府の収入になりました。
 ただし、この廃藩置県も、ほとんどクーデターといっていいやり方でおこなわれました。何の予告もないまま、各藩の当主を呼び出し、藩の廃止を電撃的に発表したのです。このことを事前に知っていたのは、政府のなかの、ごく限られた一部の政治家だけでした。(p.64-66)


明治政府というものが、如何に支配の正当性の欠けた政府であったのかがよくわかる。同時に、財政がなぜ厳しかったのかということや、廃藩置県などに見られる公明正大さのかけらもない姑息で強引なやり方によって権力を強化していったことが見て取れる。

明治という時代について、本書は人々の生活やものの考え方などについて述べているが、一般的には「富国強兵」や「文明開化」などといった言葉によってイメージが形成されている。「富国強兵」や「文明開化」のどちらにも「政治の近代化」は事実上含まれていない点に注目すべきではないか。富国は経済力や技術力を高めるということであり、強兵は強い軍隊を持つということでしかなく、まっとうな政治体制を構築することとは何のかかわりもない。文明開化には本来、これが含まれてしかるべきであろうが、実際には西洋の技術や文化の導入に関して使われることが多く、「政治の近代化」、つまり、立憲主義や民主主義や法の支配などといったことが進められたわけではなかった

政府の側は当初一貫してこうしたものに対しては消極的であり、明治も半ばになってようやく議会や憲法といった体裁を整えたに過ぎない。明治維新は民主化にもつながったかのような漠然とした印象を与えられてはいるが、実際には当初はそうしたものとはかけ離れていたということは銘記すべきである。ある意味、明治の日本というのは、現在の中国のようなあり方に近いと捉えておくべきである。いずれの政府も、政治は、選挙で選ばれてもいない、その他の資格で選ばれたわけでもない、たまたま武力闘争で勝つことができただけの少数者の独裁による統治が行われながら、経済だけは近代的なやり方を導入して経済成長を実現することにより、民に不満を持たせないようにしすることで、正統性のない自らの統治を正当化する。こうした仕組みはかなり良く似ていると言うべきだろう。

明治150年ということが言われ、あたかもその時代が良い時代だったかのように語られる風潮があるが、少なくともその一面について言えば、明治という時代を理想化することは現代中国を理想とするようなものだ、と理解しておくことは重要である。(中国のような統治が行われている社会で自分が生きたいと思うか自問すべきである。)



 士族の反乱があいついだということは、武力で政府を打ち倒すことができると考えている人がかなりいたということを意味しています。明治政府とは、結局のところ、1867年の王政復古と、1871年の廃藩置県という二つのクーデターを成功させ、その賭けに勝った人たちが権力を独占している、そんな政府にすぎません。したがって、クーデータで権力から排除されたり、うまく新しい権力に潜り込むことに失敗したりした人たちからは、「なんであいつらが権力をもっているんだ?」という不満が生じます。(p.67-68)


明治政府というものに対する捉え方としては、少なくともその前半の時期についてはここで要約されている通りに理解するのが妥当であろう。

ただ、士族の反乱が比較的短期間に鎮圧されてしまった理由などについては、もう少し知りたいと思う。



 ここまでの流れをふりかえるとわかることは、明治政府は、クーデターによって成立した、人びとから信頼されていない政権だったので、高い税金をとることができず、政府の財政を通じて、豊かな人から貧しい人へ富を再分配するような力をもちようがなかった、ということです。(p.69-70)


地租改正をしてもすぐにその税率を下げなければならなくなったことなどについてのコメント。財政的に小さな政府としてスタートしなければならなかった要因としては、江戸時代からの分権的な財政制度があったこと、クーデタによって中央政府が成立したこと、財政の中央集権化もクーデタによって成し遂げたこと、このため支配の正当性が希薄だったため、民に負担を強いる力がなかったことなどが浮かんでくる。

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