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アヴェスターにはこう書いている?
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大山綱夫 『札幌農学校とキリスト教』

 札幌農学校の本科(農学科)全卒業生名簿を入学前・卒業後の所属を含めて諸キリスト教会の会員名簿と照合すると、五・六期生あたりからキリスト教色が盛り返していることが窺える。……(中略)……。
 以上を集計すると、札幌農学校一期生から、最終の二四期生までの本科卒業生総数382人のうち、生涯、あるいは生涯の一時期にしろキリスト者であった者は、84人であり、約5人に1人の割合である。このうち56人は、一・二期生のキリスト者が中心となって作った札幌独立基督教会の会員であった。約5人に1人という割合は、おそらく当時のキリスト教主義学校内の割合に遠くなかったのではないかと思われる。(p.56-58)


五・六期生あたりからキリスト者の割合が再び増えてきたと指摘しているのは、有名なキリスト者を輩出した一期生と二期生に続いた三期生と四期生は反キリスト教的なスタンスの者が多く、有名な国粋主義者も輩出していることから、札幌農学校のキリスト教的な色彩は最初だけであるという議論を否定するためであろう。その上で、全卒業生と主な教会の会員の名簿を照合して実証的にキリスト教徒の割合が1/5ほどになることを明らかにしている。このことは筆者の一つの功績であると思われる。

ただ、気になるのは、以下の点である。

この調査が農学科に限定している点である。札幌農学校がどのような特色の学校だったかということを明らかにするには全体、すなわち全学科の卒業生(あるいは入学生)の数字を提示するのがより妥当だと思われる。農学科は一・二期生のいわば直系の後輩たちであり、彼らの影響力も他の学科よりずっと強かったと想像される。この想定から推せば、他の学科の「キリスト教色」は農学科よりもかなり薄いものとなるだろうと予想しても不当ではないだろう。(つまり、サンプルが全体を代表すると想定できない。)全卒業生の中でのキリスト者の割合はそれほど高くないのであれば、札幌農学校のキリスト教的な色彩といっても、それは主に農学科の特徴であるという限定が必要になるのではないか?



学内はかつての「禁酒禁煙の誓約書」の精神が支配するキャンパスではなく、学生生活は他官学のそれと似てきた。札幌農学校は1907(明治40)年に東北帝国大学農科大学となり、1918(大正7)年には北海道帝国大学となった。さらに農学部の他に諸学部が増設され、規模が拡大すると教員構成にも変化が生じた。帝国大学としての研究・教育プログラム充足のためには、精神的伝統とはかかわりのない人事が進められた。農学校から帝国大学への拡大・充実期は、キリスト教色の減退期と重なり合ったといえる。(p.66)


建学の目的がキリスト教の普及にあったわけではなく、官学として政府が設定する政策目的のために創設された教育機関である以上、このような規模の拡大が小規模な集団では維持できていた精神的な伝統と相容れなくなるのは尤もなことであり、内村鑑三などがこうしたことを指して堕落などと評価するのは果たして正当なことなのか、と思わされる。

本書は内村や大島正健のようなキリスト者に比較的共感的なスタンスが見え、佐藤昌介や宮部金吾などに対しては、それなりに事情を見てはいるものの否定的な評価が見え隠れしている。佐藤や宮部の志向は明らかに教育研究機関としての目的に照らすと概ね納得のできる妥当な方向性での動きをしており、それを学校の存在理由とは本来無関係なキリスト教の観点から批判するのは的が外れているのではないか。もちろん、自分が在学した学校がこのようなものであってほしいという理想を各自が持つことは当然のことではあり、内村らが言いたいこともわからないでもないが。

ただ、キリスト教的な大学であり続けろ、というのであれば、政府が大学に課す目的や大学自体の存在理由を変更する必要があり、その目的に適った組織の構成や運営が行われる必要がある。その大本のところからキリスト教に沿ったものとするのであれば、神権政治による統治の下で、全ての学問は神学に奉仕するような学校や世俗の法よりも宗教法の方が優位にあると考えるような状態を理想とすることに繋がるものであるということには留意しておいて良いのではないかと思う。



最晩年の内村のもとで聖書を学んだ、のちの西洋経済史研究家の大塚久雄が、キリスト教とマルクス主義のどちらも捨てられないことから生ずる悩みを告白したところ、内村は「私もキリスト教の信仰と進化論の間で非常に苦しんだ。しかし、自分は、どちらを捨てるようなことはしなかった。いまだに未解決のところはあるけれど、そうしてよかったと思う。君もそれをやればよいではないか」と答えたという(p.213)


大塚と内村が交流があったとは知らなかった。



 佐藤と宮部のアイデンティティは米国留学中に完成する。佐藤はジョンズ・ホプキンス大学へ進み、“History of the Land Question in the United States”と題するアメリカの土地政策を巡る研究論文で博士号をとり、宮部は、ハーヴァード大学で、“The Flora of the Kurile Islands”と題する千島列島の植物相の研究論文で博士号をとった。二人共、札幌農学校入学時点からの関心、しかも札幌農学校や開拓使の方針に沿った関心を、当時考えられる最高の学歴を全うする形で貫くことができた。彼らのほかに新渡戸稲造(二期生、卒業後アメリカのアレガニー大学、ジョンズ・ホプキンス大学、ドイツのボン大学、ベルリン大学、ハレ大学へ留学)と渡瀬庄三郎(四期生、卒業後ジョンズ・ホプキンス大学留学)らも留学によって札幌農学校の教育や研究の延長線上で自己の帰属先を発見した。彼らは、札幌農学校というカレッジを終えて、ドイツ型の学問論の影響を受けつつあった、ジョンズ・ホプキンス(1876年創立)やハーヴァードという、総合大学あるいは大学院大学へ進んだ佐藤は、ドイツ型セミナー方式を導入し「科学的史学派」を形成しつつあったハーバート・バクスター・アダムス(Herbert Baxter Adams,歴史学)やドイツ歴史学派に思想的に位置するリチャード・セオドア・イーリー(Richard Theodore Ely,経済学)のもとで学び、宮部は、チャールズ・エリオット(Charles William Eliot)総長のもとでニューイングランドのカレッジから総合大学へと変質しつつあったハーヴァードで、当時世界屈指の植物学者エイサ・グレイの薫陶を受け、学問的には最も高度な恵まれた経験の積み上げを、札幌農学校の教育の延長上で行うことができた。一・二期生のキリスト者の中でこうした人々と対照的に激しいアイデンティティ混乱に陥ったのが内村である。彼は、ジョンズ・ホプキンスやハーヴァードとは対極にあるニューイングランド福音主義のアマスト大学(Amherst College)に入り、いわば二度目のカレッジ生活を送らざるを得なかった。彼にはカレッジ生活のやり直し、つまり札幌農学校(Sapporo Agricultural College)の教育のある意味での清算の上にしか、そのとき人生は見えていなかったといえる。彼の帰国後の言辞の中にみえる札幌農学校に対するアンビヴァレントな態度は、この辺の消息を反映しているものであろう。(p.218-219)


ドイツ型のユニヴァーシティや大学院大学とアメリカのカレッジを対比させながら、札幌農学校の卒業生のその後のアイデンティティ形成との関係を論じているのは非常に面白い。

この問題はもう少し掘り下げて見てみる価値がありそうな気がするが、ここで対比されているような人物に関して言うと、佐藤や宮部はより高度な学問的な研鑽を続けることになった(その結果、社会的にもそれに見合った役割を見出すことができ、そうした社会的役割の中で自らのアイデンティティも安定した)のに対し、内村がカレッジに入りなおすことにしかならなかったのか(その結果、佐藤や宮部、新渡戸のような社会的な地位や役割はある意味では得られず、社会からの評価や支持が少ないためアイデンティティも安定しにくい状態が続いた)と言えば、宗教(内面)に対して関心が集中してしまい、学問や社会といった外へと目を向ける(関心が向かう)度合が少なかったからではないかと思う。10代の学生の関心を超えることが少なかった内村と普通に成長していった他の学生との違いではないか。(内村も水産学など学問的な関心があったのはそうだろうが、これも多分に宗教的な世界観を前提として考えながら学問をするのであれば、究極的には同じことである。)



 公人となってからの佐藤と宮部は、青年期のような伝導熱心は見せず、ましてや内村のように強烈な主張をすることもなく、大学人として、ひとりは大学行政に、ひとりは研究活動に専心する。そして二人の大学への関わり方は、かつてのニューイングランドのカレッジを範型とした札幌農学校の性格をドイツ型のユニヴァーシティへ変化させる方向のものであった。これは、彼らの青年時代にアメリカの高等教育の世界に起こっていた趨勢を後追いするものであり、同時に日本の近代化の中で生じていた学問の世界での重心の推移と軌を一にするものだった。そうした趨勢、推移の中で、初期札幌農学校が、理科系学校でありながらも備えていた人文主義的傾向や、全人教育的要素を継承・実践したのは、彼ら二人ではなく、新渡戸であった。彼は課外においても多くの学生をひきつけ、その学生たちはセツルメント的性格を帯びる遠友夜学校(1894〔明治27〕年創立)の担い手となった。有島武郎(19期生)も新渡戸に似た役割を果たしたが、彼らの行き方は大学の拡大・発展の中では主流とは言えなくなっていた。主流を代弁して南(二期生、後に北大総長)は、「徒らに普通教育的思想、或は文学的観念を増長せしめるが如き昔の弊風は社会の気運に反す」と述べた(ただし、南の場合は、ユニヴァーシティ化の視点からというより主流を構成するもうひとつの要素である実学の観点からの発言と考えられる)。宮部ら二期生は、札幌をエジンバラの如く「北のアテネ」(Athens of North)たらしめようと論じ合ったが、19世紀末から20世紀にかけてのアテネ化は、客観的方法論と専門分化による学問の発展を目指すドイツ型のユニヴァーシティ化たらざるを得なかった。(p.228-229)


学問の専門性が深まり分化が急速に進んでいく中、旧来のアメリカ型のカレッジでは高等教育として不足なのは明白であり(カレッジというのは、現在日本の普通高校程度の教育に若干の研究の要素が付け加わる程度というイメージではないか)、そこからの変化は不可避のものだっただろう。

新渡戸のここでの位置づけもなかなか興味深い。



日本がキリスト教圏内の対抗的勢力(カトリック)や異端ではなく、キリスト教圏外でプロテスタント・キリスト教勢力になる高い期待を寄せられた非キリスト教国であったことが、キリスト教宣教という大義のために積極的に評価されたのである。(p.347)


日清戦争の頃のアメリカのプロテスタント宣教団体らの日本への評価が、キリスト教の宣教対象として有望と見られており、かつ、カトリックや異端にはなびかないだろうという見積もりの下で積極的に評価されていたという。なるほどと思わされる。ただ、「宣教対象として有望」という宣教師たちの見込みは明らかに見誤ったものだったのは言うまでもないが。

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