FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その2)

つまり、日本人の台湾原住民への関心は、そのような日本人の「中国コンプレックス」の跳ね返りとして解釈され得る、ということである。(p.38)


霧社事件が日本人が台湾原住民に対して持った強い思い入れの象徴となったことに関連するコメント。



 しかし、真珠湾攻撃から太平洋戦争が勃発すると、南方戦線への兵士の供給の問題が強く意識されるようになり、翌42年には、軍に志願することがまた「許可」された。以後の三年間に、漢人系が4200名、原住民約1800名が陸軍特別志願兵として徴集され、その他海軍なども含め約1万7000名が軍に「志願」したとされている。さらに戦争末期になると、終に内地と同様、徴兵制がしかれることとなった。それまでは、台湾人に広範に武器を渡すこと自体に危険がともなう、と見做されていたようである。いずれにせよ、こうして敗戦までに20万を超える台湾住民が戦場に送られ、そして3万人以上が亡くなったのである。(p.39)


台湾の人々は戦時中もすぐには徴兵されなかったということはよく目にする。武器を渡すこと自体に危険が伴うと見なされていたというのは、なるほどと思わされた。確かに、台湾の人々の一部は日本が台湾を領有するようになってからもしばらくの間は武力で抵抗していたし、皇民化運動が進められていたのも、ある意味ではやはり異質だと前提しているから同化させようという発想になるわけだから、為政者側はやはり台湾の人々(本島人)を完全には内地人と同質化していない人々と見ていたとは言えそうである。(軍隊は特にそうした見方をしそうだ。)



日本から台湾の歴史を見る場合、特に戦前の植民地期の台湾のあり方を考える場合、このような世代のギャップが存在していることを見逃してはならない。日本の植民地統治は、初期の武力平定期から、特別統治主義による統治の時期、そして内地延長主義の時期、さらに最後の皇民化期など、政治、経済、文化全般にかかわる政策モードが変化しており、どの時期を見るかによって、植民地台湾のイメージは変わったものにならざるを得ないのである。(p.41)


日本や中国に対する見方も、どの時期にどのくらいの年齢だったかという世代ごとにかなり異なったものとなっている。最近20年くらいの間に生の声を聞くことができた人の多くは、皇民化期にはまだ社会に出ていないくらいの世代であるが、この世代とそれ以前の世代とはかなりのギャップがある。武力平定期に既に大人になっていた世代や十分に物心がついていた世代と、そうした武力平定の時代にはまだ生まれていなかったような世代とでは、日本に対する印象を訪ねても全く異なるものになる。

この点は本書を読んだ最大の収穫だったと思う。



 50年代の台湾は、米国による有形無形の援助を受けていたことで、反共の砦として米国の世界冷戦戦略の中の重要拠点に位置づけられるものとなっていた。第二次世界大戦に敗れた日本は相対的に、台湾社会において比較的影の薄い存在になっていた。50年代に書かれたり記録されたりしたものを読んでも、日本に対する言及はあまり出て来ない。日本の存在は、台湾社会の関心からは遠ざかっていたのである。その日本が台湾社会において、もう一度存在を主張しはじめるのは、60年代の半ば、日本の文脈で言えば東京オリンピックを成功裡に終え、高度経済成長のラッパを鳴らした時期である。日本がもう一度、韓国、台湾、東南アジアへと「進出」をはじめた頃でもあった。
 歴史的メルクマールとなるのは、1965年である。……(中略)……。
 ……(中略)……。戦後台湾は、軍事分野その他様々な領域において一貫して米国からの「援助」に頼った経済建設を行っていたわけであるが、その「援助」が、1964年に失効することが取り決められていたのである。これは主に、米国の財政難によるものであったが、これをカバーするように、台湾の経済を支える日本のイメージと存在が、この頃から台湾社会の中でせり上がってくる。(p.51-52)


なるほど。台湾における日本の存在感は薄かった時代があったというのは、昨今の台湾と日本との関係から見ると意外にすら思える。ただ、この時代の台湾社会を牛耳っていたのは大陸から来た外省人たちであり、白色テロの下で言論の自由も制限されたことなどを考えると、それほど不思議ではないことがわかる。その背後に「美援」(アメリカによる支援)があり、他の地域に頼る必要性がなかったのであればなおさらであろう。

ただ、当時の台湾にとって最も重要な関係であったアメリカとの関係において、援助が打ち切られるとなれば、一挙に台湾社会の置かれた状況は変わってくることになる。本省人たちによる日本とのネットワークも活用できる、もともと繋がり深かった日本との関係を模索するのは当然であっただろう。日本側も高度成長の下で経済的に海外進出が必要になってきていたという事情がそこに重なってくる。



 ここで注意しなければならないのは、この俳句の会「台北歌壇」の成立が、1968年だということである。前節で述べたように、1945年以降に遠ざかっていた日本の存在が、この時期、観光客や進出企業という形で再び台湾人の目に触れるようになっていた。そのようなタイムラグを経た再会によって、皇民化世代の人々の中で自身の青春に対するノスタルジーが掻き立てられた、という言い方が成立しよう。(p.56)


皇民化世代(日本語世代などとも言われることが多い)が日本に対してかなり好意的な印象を持つにいたる要因。しかもこのタイムラグの間には国民党による白色テロの時代が始まり、この時期も継続していたのだから、なおさら好意的に記憶が再構成されやすかっただろう。



 八田與一の顕彰にかかわる戦後のプロセスは、非常に興味深いものである。忘れてはならないのは、水利事業は全て日本総督府の予算だけで完遂したものではなかったということ、その建設に働いたのは、ほとんど地元の台湾農民であったという当たり前の事実である。八田與一の顕彰には、植民地統治時代という歴史的環境にありながらも、その事業を成し遂げた「自分たち」への誇りの感覚が被さっている側面を見逃してはならない。八田與一の顕彰について、日本側では、日本統治が台湾人に大きな恩恵を与えたとする論拠に充てる傾向もあるが、植民地統治の中に含まれている様々な側面を慎重に推し量る必要がある。(p.57)


八田与一に関わる言説には、私も違和感を感じてきたが、日本側の八田与一顕彰言説の多くが持つ問題点を的確に指摘してくれている。

スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1308-45da3ef4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)