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アヴェスターにはこう書いている?
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丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その1)

 ここから出兵までのプロセスであるが、それは日本単独の力では為し得なかったということが歴史資料から分かっている。牡丹社事件を知った清国アモイ駐在の米国総領事リゼンドルという人物が、米国駐日公使デ・ロング(C.E.De Long)を通じて維新政府に台湾出兵を進言したとされる。かつて1867年、米国政府は二隻の艦艇で台湾に侵入したものの(これをローバー号事件という)結局は拠点を作り得なかったが、米国側はこのとき、地図などの資料を作成していた。リゼンドルは、日本の台湾出兵に際して、この資料を維新政府に引き渡しているのである。政権の実権を握っていた大久保利通がリゼンドルの意見に興味を示し、九州を中心とした不平武士たちの余剰エネルギーを台湾への出兵にあてることとなった。
 ……(中略)……。つまり維新政府は、近代国家としての領土概念を戦略的に用いたということ、またそうした知識は西洋列強(米国)によってもたらされたものであったというところが肝要である。(p.21-22)


台湾出兵はアメリカ側からの進言や助言、資料提供などのサポートがあって行われることになった。日本はこれにより近代国家の論理を学習した。



 翌年台湾に乗り込んだ劉銘伝は、台湾の海防と殖産興業を一体のものとし、基本的な政策として、海港防衛、兵士養成、租税体系の整備、原住民対策の充実をめざした。……(中略)……。この近代化路線は、その政策の大胆さから、すぐに財政難に陥ることになり、任期半ばにして劉銘伝は台湾を去ることになる。しかし台湾における近代化は、清朝における「洋務運動」の一環として推し進められて行くはずのもので、1895年の日本による領有がなければ、台湾はそのまま中国の一部としてさらに近代化が進展したことが予想される。(p.26)


日本における台湾の歴史紹介本などの中では、劉銘伝による近代化は不十分なものとされ、例えば鉄道も粗末なものだったので日本の技術で作り直さなければならないところがあったことなどが強調される傾向にある。これは台湾を近代化したのは日本なのだという主張に繋がり、この主張は、日本は台湾を植民地化したが良いこともしたという主張へと明示的であれ暗示的であれ結び付けられる傾向がある。こうした方向性に妥当性が全くないとは思わないが、あまりにもこの方向だけで解釈するのも一方的であり植民地統治を正当化したい人たちの受けを狙いすぎのようにも思う。

本書のように劉銘伝による近代化路線というものが大陸の洋務運動に連なるものであったという理解は、日本統治前の台湾の状況を理解する上で重要であり、上記のような「日本的な解釈」を正しく位置付けるために必要な要素の一つであるように思われる。ただ、劉銘伝の路線ですら財政難で実施できなかったという点やその後の中国の政治の乱れなどを考慮すると、日本統治がなくても近代化は進んだであろうということ自体には異論はないが、植民地統治を成功させるために大金をつぎ込んだ日本による政策よりも積極的に推進されることはなかったのではないか、ということくらいは言えるのではないか。



 この戦争は、双方に大きな被害を出すこととなった。日本軍の死者(病死者も含む)だけで5000人にも上り、実に日清戦争の過半数にも相当する。これは、日本の歴史教育でも留意されなければならないことである。台湾領有戦争は、日清戦争本体の「おまけ」のような扱いか、あるいはその情報自体、取り上げられていない。日本において台湾認識を作る上でも、この台湾領有戦争の軽視は問題であると言えよう。
 また、この戦争によって、当時の台湾住民の中に、日本の台湾領有に対する態度をめぐって大きな亀裂が生じたことも念頭に置かなくてはならない。一つに、中部南部において激しい抵抗戦争が発生したことと対比的に、台北など北部においては、流血の事態を避けるため、日本軍の入城に協力した地主・郷紳層が現れ、後に日本の植民地統治の重要な協力者となったという事実である。もう一つは、日本総督府が布告した台湾籍民(日本臣民)への転換を潔しとせず、大陸へと渡って行った人々も多く存在したという事実である。(p.30-31)


日清戦争後に台湾を領有することになったが、その初期の段階では台湾の住民から激しい抵抗を受けた。この時の日本側の被害について日本の歴史叙述は無視、軽視しているという。この犠牲者数は台湾認識を形成するにあたり重要な事実であると思われる。台湾の人々は当初はそれほど歓迎していたわけではなかったという認識は重要。

後段の2つの方向性については、日本における歴史叙述では前者には触れられることが多いが、後者は無視される。どの程度の数いたのか(資料がないので難しいだろうが)なども示されればなおよいように思われる。



 今日、日本でも台湾でも台湾領有戦争について語る機会は、さほど多くないが、それはなぜなのか。台湾の統治がこの後、51年にも及んだことが挙げられるかもしれない。日本の植民地統治が終了した時点で、台湾領有戦争のことを経験として記憶している世代はごく少数はとなり、日本による台湾植民地統治を語る際には、勢いその末期の数年のみが語り草となっていたことが予想される。……(中略)……。そのために、日本の植民地経営が軌道に乗っていた時期の経済建設の記憶や、日中戦争の勃発に伴って進展した皇民化運動(台湾人を日本人化するための施策)の持つ鮮明な記憶が前景化する中で、台湾領有戦争の記憶は、歴史の重さというよりも記憶の重さの点で、薄められることになったと考えられよう。(p.31)


なるほど。このような日本統治期の台湾人の世代による認識の相違に留意する必要があるという点は本書から得た収穫の一つだった。



 では、台湾投資のためのコストへの不安を押してまで台湾の植民地経営を続けていくことに、どのようなメリットがあったのか。それは結局のところ、台湾の植民地経営を立派に「成功」させることにより、西洋列強と同様の地位を主張するところに最大の眼目があったからである。だから、台湾における公的な建物や道路などのインフラ整備には、内地以上に重視された部分も見受けられる。(p.32)


後段の部分は、日本統治時代の学校建築などを見るとよくわかる。例えば、現在の立法院(日本の国会に相当)や台北当代芸術館などは、それぞれ高等女学校と小学校の校舎であった。



さらに後藤は、抗日勢力を分断する企図として、臨時台湾旧慣調査会なる組織を立ち上げ、台湾の生活文化、商文化を徹底的に調査させたが、この仕事は、後の満州における南満州鉄道調査部に繋がる日本植民地統治の一つの方法論を作り上げた、とも言える。(p.33)


こうした各植民地の統治方法の連続性や差異には興味がある。台湾については概要はだんだんわかってきたので、他の地域のこともそろそろ調べてみたいと思い始めている。



 さて、この二つの植民地経営の方法について考察すると、後藤の中には、当然の立場として帝国植民地主義者でありつつも、「科学」的認識から民族の「他者性」を前提にしていた発想があったことが指摘できる。翻って、原敬の内地延長主義は、彼がクリスチャンであったことからも、西洋型ヒューマニズムに基づいた思想的背景を持つ志向性の為せるものと見られていた。しかし、皮肉にも十数年後、内地延長主義的な植民地統治理念は、究極の民族同化とも言える「皇民化運動」に道を開いたもの、という解釈も成立する。差別と同化は、表面的には反対の意味内容を持つものの、実際の植民地統治においてこの二つの概念は密接に結びついた機能として把握されるべきものである。(p.34)


後藤新平の特別統治主義と原敬の内地延長主義。権力に相違がある二つの集団が結びつく場合、どちらの考え方を採用しても暴力的な側面が出てくることは避けがたい。権力の相違があるという構造自体が様々な形をとりながら暴力として作用する。このように考えるべきではなかろうか。



ここで一つ確実に言えるのは、この時期の大陸中国における「近代」の展開、つまり辛亥革命から五・四新文化運動を経て、国民革命に至る道程について、台湾は完全にその外側にあったとも言えないということである。台湾の知識人は、大陸中国で起こりつつあることを直接間接的に採り入れつつ、日本の植民地統治への抵抗を模索していた。(p.35)


この視点、大陸と台湾との関係性について、従来の日本から見た台湾認識においては軽視ないし無視されていた。この点に焦点を当てているところに、本書の持つ重要性があると思う。

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