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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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石井伸和 『小樽志民 運河保存運動の市民力』(その2)

 そもそも「運河論争」とはマスコミが用いた言葉で、保存派・埋立派が同じテーブルで議論したのは、始まりと後始末の時だけである。渦中で両派が「論争」したことはない。「運河論争」より「運河問題」といった方が正しい。(p.84)


なぜ同じテーブルで議論ができなかったのか、ということを考えると、どちらが拒否したのかと言えば体制側に立っていた埋立派が拒否していた面が強いことは否定できないだろう。

このことは、現在の安倍政権が森友問題や加計問題に対してどのような態度を示してきたか、問われたことに対してまともに答えたことがどれほどあったか、といった問題とも通じている。権力を行使する立場を与えられた人間に対して、権力行使の自由を無制限に与えてはならない。規則による規制(立憲主義)だけではなく、他の同等の権力などによる抑制と均衡(権力分立)などが極めて重要である。現在の安倍政権に見られるような問題に関しては、政治からの行政の独立性(立法府からの行政府の独立性ではなく、「政治家であると同時に行政を担う内閣のメンバーでもあるような者」と「理念的には純粋に与えられた使命を実行する行政官僚制の構成員」との間の独立性[※])が必要であろう。

[※]今の制度では内閣が高級官僚の人事を握っており、官僚が内閣にいる政治屋が正当性のない恣意的な権力行使をした場合であっても、これに対して抵抗が難しい制度になってしまっていることが問題である。

また、本書は小樽に関する本であることから、ついでに述べておけば、つい2週間ほど前に選挙で落選した森井前小樽市長のように、自分にとって都合の良い人間たちにだけ、法令や例規を無視して恣意的に利益を分配していく(漁港に自分の支持者だけ規則に反して観光事業を行わせて漁業者の事業を妨害したり、除雪の事業に自分の支持者を無理やり捻じ込んで混乱を生じさせたり、庁内の人事も規則に基づかずに知己を昇進させたり、自分の応援団を参与に任命しほとんど何も仕事をしていないのに月30万円の給料を予算の根拠を得ずに税金から払い続けた)といった権力の恣意的な濫用がされてしまったことも、権力に対する抑制が現代の政治行政において不足していることを明らかにしている。

前市長は、この件について市議会等がどのような指摘をしても回答らしい回答を示すことができなかった。負託を受けて権力を行使するという立場(政治家及び行政)においては、その権力行使が正当なものであることを説明する説明責任が生じるのだが、この説明責任を果たしていない場合、その権力行使には正当性がないということになる。このような説明責任を果たす(これは代議制民主主義における政治家のイロハのイであろう)ことすらできない無能ぶりであったから、前小樽市長に対しては、市議会等による指摘は、ある程度の歯止めにはなったが、もし、口先では説明したふりができるくらいの知性は持ち合わせている人間が同じようなことを行った場合、安倍政権と同じような事態にもなりかねなかっただろう。



「負けた原因は権力ある者のみが既成事実を積み上げることができ、その事実がぬきさしならないところまで蓄積されたということじゃないか」(p.191)


上でも述べたように、権力を行使する立場を与えられた人間に対して、権力行使の自由を無制限に与えてはならない。それによって、権力側がこのような既成事実を積み上げさせることができないようにしなければならない。これはまずは制度的に権力抑制の仕組みがあり、かつ、それが機能しなければならない。その上に政党なども、この権力は抑制されるべきであるという理念をできる限り前提として共有していることが望ましく(現在の日本では「保守」を名乗る反動勢力――自民党の多くの議員もここに含まれる――には、このことが共有されていないのが極めて大きな問題である)、さらに社会運動・市民運動といったものによって権力抑制の仕組みの実効性を担保していかなければならない、ということではないか。



「新しいまちづくり」の方向性として「観光振興」が当然のように議題に挙がった。
 昭和60年2月22日、第4回目の議論の中で、菅原氏が突如議論に水を差すように「観光するほど落ちぶれていませんよ」と発言された。我々は「えっ⁉」と絶句した。菅原氏こそが運河埋め立ての影の実力者と見ていたから、その彼が「なんと時代錯誤な物言いをするのか」と驚いた。
 明らかに時代錯誤ではあるが、こういう大人が小樽には少なからずいたことも事実である。この観光への偏見は1920年代の植民地観光に端を発しているらしい。持てる国の人々が持たざる国へ避暑観光に訪れ、持たざる国の人々を奴隷として使役したことが世界中に伝播した。ここから落ちぶれた地域の産業が観光とイメージされるようになった。(p.193-194)


1920年代頃には世界的な観光ブームがあったが、そのことの一つの側面として興味をひかれた。

ちなみに、いつから観光(観光業)のイメージが変わっていったのか、どのような変遷をたどってきたのか、ということも興味があるところである。



 自民党、公明党、社会党、地区労、小樽商工会議所の五団体が新谷氏推薦団体となった。以後長く続いた小樽市長選挙の保革相乗りはここから始まった。十数年間に亘る運河攻防の疲れでもある。(p.206-207)


ここでは「疲れ」として総括されているが、個人的にはこれは運河を巡る攻防に対する一種の反省であり知恵というべきではないか、と考えている。

事前に多くの団体で合意できる範囲で物事を進めることで、運河問題のような市の分断を避けることができる。このような反省に立った知恵の産物なのではないかと思うがどうだろうか。

そして、これはさらに言えば、「五者相乗り」として既成勢力の既得権であるとして否定することで2014年に当選を果たした森井前市長が、当選後に何をしたかということを考えても、このような「相乗り」は必ずしも悪い面だけではないことが見えてくるのではないかと思う。

すなわち、森井は先に述べたように、自分と近い関係にある者だけに法令や例規等を無視して恣意的に利益を与えた。一部のものだけに恩恵が集中し、それ以外の市民は極めて大きな迷惑をこうむっている(除雪が来なくなった、バスがなくなった(少なくなった)、漁業者の事業が妨害された、市議会の空転により本来議論されて進められるべきことの多くが足止めされた、予算の裏付けすら取れなかった参与に数百万の税金が無駄に払われた、無能な職員が昇進し、そのような人物により多くの税金で給与を払うことになっている等々)。

五者による保革相乗りは、ある意味では、こうした小さな範囲だけに利益を集中させるような権力の恣意的な濫用を事前に予防するような体制だとも言える。保革相乗りは、人材のいない市町村の首長を担いでいくには、必ずしも悪い方法ではないように思われる。人選の段階でも市内の有力者の間で一目置かれるような人から選ばれるのだから、どこの馬の骨ともわからない人物が突然やってきて恣意的に市政をかき乱すという危険は少ないからである。また、ここ10年くらいのドイツなどでは大連立が普通のことになっており、それと大差はないとも言えるということを付け加えておく。

(もちろん、こうした相乗りや大連立に危険や欠点がないとまでは言うつもりはない。特に反対者がいない(少ない)ことによる権力の暴走という可能性も状況によっては考えなければならない。しかし、一般的に言って、小さな市町村レベルでの人選のシステムとしては安易な「既得権益たたき」よりは遥かにましな可能性が高いと思われる。)



 活性化委員会による「小樽グラスアートセンター」の構想が完成した昭和61年3月、我々は横路知事に報告に出向いていた。概略説明の後、斉藤秘書官が「すでにこの計画には道として20億円の予算がつけられています」と語ったことを覚えている。しかしこの20億円は、平成2年開館の「運河プラザ」と平成8年開館の「小樽交通記念館」に使用されてしまった。なぜ活性化委員会の答申を新谷市長が反故にしたかは未だ謎である。(p.210-211)


活性化委員会の答申が顧みられなかったという話は知っていたが、運河プラザ(現在、これと同じ建物に小樽市総合博物館運河館も入っている)と交通記念館(現小樽市総合博物館本館)に道からの予算があてられたとは知らなかった。グラスアートセンターという発想も面白いが、博物館は重要文化財(手宮鉄道施設)の動態保存などにも繋がっており、博物館も地方博物館としては比較的(学芸員などの)スタッフも充実しているとも聞いているので、現在の時点から振り返ってみると、新谷市長の選択はあながち間違った選択でもなかったのではないかと思う。



 まちづくり運動を担ってきたのは小樽のまちづくり運動家である。彼らの圧倒的多数は観光産業とは直接関係のない職業に就いている。一方、小樽で観光施設を営む約八割は市外資本である。極論すれば、まちづくり運動を進める人々には観光の恩恵が直接ないのに、営業行為に専念する観光業者、それも外様資本がその恩恵を一身に受けている構図になる。(p.227)


小樽で観光施設を営む約8割が市外資本というあたりの議論は、先日このブログにもアップしたとおり、堀川三郎が『『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』において、一応データを用いて反論していた。

ただ、この堀川のデータは市の観光地域のごく一部しかカバーしていない点に難点があり、彼が言う「堺町外部資本神話」に対する反証は成功していない。一方、本書のような市民の一般的な見方にも裏付けは示されていない。データを取れば調べられることなので、この説の妥当性は検証されるべき問題である。

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