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アヴェスターにはこう書いている?
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堀川三郎 『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』(その1)

 上述のように、小樽に繁栄をもたらした運河港湾地区の景観は、木骨石造倉庫群が運河に面して並ぶ、他に類を見ないものである。そこに見出される「デザイン原理」は、以下のようなものである:

 (1)外壁材が札幌近郊で産出される軟石である
 (2)棟高が8~12mの範囲内に収まっている
 (3)にもかかわらず、軒高がほぼ5~6mで一定していて横のラインが揃う
 (4)屋根勾配が五寸と一定している
 (5)切妻屋根であること
 (6)前に運河水面、後ろにサービス道路である「出抜小路」がある
   (観光資源保護財団編, 1979:140-141をもとに堀川が作成)

 こうした原理が、緩やかなカーブを描く約1キロの運河沿いに、まるで鋸の歯を横たえたような切妻屋根がリズミカルに並び、それが水面に逆さまに映る小樽独特の景観を産み出している。川越同様、ここにも独自の様式が存在しているといってよい(図2-5)。(p.68)


札幌軟石や小樽軟石が素材であることや切妻屋根であるという共通点は指摘されるまでもなく容易に看取できるところだが、軒高や屋根勾配がほぼ一定だという点は指摘されるまで気付かなかった。法的規制などがあるわけでもないのに同じ地区で同じようなデザインの建物が連なるという現象は興味深い。

出抜小路については、次の引用文がその意義を紹介してくれている。



 ここで注目すべきは、個々の倉庫が決して単体として存在しているのではなく、港や運河、艀などと一体となったシステムを構成しているということだ。それはどういうことか。一旦ここで、艀荷役の手順を簡単に説明しておこう。まず、入港した船から艀に移された積荷は、運河へと運ばれる。つぎに、港湾労働者が肩に荷物を担いで艀から運河沿いの倉庫に運び込む。倉庫裏の出抜小路からは、取引された荷物が、大八車やトラックなどで道内各地へと運ばれていく――このようにして荷物や人の動線が錯綜しないように工夫され、運河と倉庫は市街地と港湾システムを繋ぐ界面(インターフェイス)として機能している。つまり、港、運河、倉庫、出抜小路は一体のものであり、有機的連関があったといえるのだ(堀川, 1998b, 2001)。(p.69)


運河や倉庫などは建造物であるため目につきやすいが、空間である道路(出抜小路)は目立ちにくい。特に現在のように建物が「歯抜け状態」になってくるとなおさら存在が見えなくなってしまう。しかし、出抜小路まで含めて一体のシステムとなっていたと理解すべきであり、そうした一体となったシステムの中にそれぞれの建造物が存在していたという理解は、このシステムが機能していた時代を理解するのに重要だと思われる。



「運河ヲ築キ」の表現に明らかなように、既存の陸地を掘り込んで運河とする「掘り込み式」ではなく、既存の陸地の沖合いに埋立地を造成し、その埋立地と陸地との間を運河とする方式が採用された。なぜなら、この方式を採ることにより、運河の両側に倉庫を配置できること、手狭になっている港湾地区の土地を削らなくてすむ、という2点の長所があったからと思われる。(p.96)


小樽運河を建設する際に沖合を埋め立てる方式が採用された理由について的確に指摘している。私の見方で補足すると、以下のようになる。そもそも平地の少ない小樽で陸地を削って掘り込み式運河を建設するという選択肢はなかったと思われる。特に、運河が建設されるより前に既にその周辺の陸地は(ほとんどが明治以降に)埋立てによって造られたものであったという点を考えると、埋め立てたばかり土地を掘り込んで運河を造るなどという発想にはなりようがなかっただろう。



 近年の港湾史研究や広井勇研究の進展は、当時の広井が実際に最も配慮せざるをえなかったのは、広井自らが指揮した先の防波堤工事で雇われ、その後も小樽港で労働に従事していた大量の港湾労働者の雇用問題であったことを示唆しているが(一例として、広井勇・伊藤長右衛門両先生胸像帰還実行委員会編,1999を参照)、ここではこれ以上は踏み込まない。神代・他(2011)も参照。(p.98)


なるほど。小樽運河の建設過程の議論において、運河か埠頭かという議論があったとき、広井勇が運河方式を押したことで運河方式でまとまっていったとされるが、私としては、広井ほどの見識がある人物が、なぜすぐに用済みになってしまうような運河を推したのか、という疑問を持っていた。(もちろん、現在から見ると結果的に運河があって良かったとは思っているが)ここでの指摘は私のこの疑問に答えてくれるものであると思われる。(なお、本書の次のページの注では、広井が段階的港湾整備を考えていた可能性があることが指摘されている。)

なお、運河があってよかったというのは次のように判断するからである。すなわち、最初から埠頭方式にすれば大正から戦前までは経済的には小樽はさらに潤ったかも知れないが、結局戦後には中央政府側の政策の転換によって繁栄の諸条件がなくなってしまうことにより、いずれにせよ斜陽の時代を迎えただろうと想像され、この場合には昭和の運河問題は生じなかっただろうが、ある種の文化財であると同時に観光都市になる資源でもある運河とその周辺の町並みがないため、現在ほどの個性を発揮することなく無名の都市として過ごすことになったであろうからである。



換言するなら、運河が小樽港の経済的発展を牽引したというよりも、運河は小樽港最盛期の最後の6年を遅ればせながら支えていたに過ぎない、ということである。旅行ガイドブックに限らず、「運河が小樽の発展をもたらした」といった主旨の記述を見かけるが、上述から、こうした記述には一定の留保が必要である。むしろ、札幌の外港としての政策的位置付けと、対樺太などの日本海貿易の最重要拠点であった小樽港の相対的優位こそが小樽に繁栄をもたらし、その繁栄が運河建設や、防波堤のように100年後にも現役で機能し続けるような修築工事を可能にさせた、と言うべきであろう。運河は小樽に繁栄をもたらした牽引車ではなく、小樽繁栄の結果として産み出された果実であったのだ。そして、果実がようやく実った時、小樽をめぐる状況はすでに大きく暗転しはじめていた。(p.100-101)


ほぼ同意見である。ただ、対樺太の拠点という位置づけが小樽港にとって持つ意義については一般に言われているほどではないという研究もあるため、本書の記述に対してはこの点だけは割り引いて考えるのが適当だとは思う。



 ここで注意しておきたい点は、戦時統制経済体制によって小樽が失ったものの大きさもさることながら、そのことによって利した者が誰だったか、ということである。改めて言うまでもなく、戦時統制経済によって経済機能の集積が図られた札幌こそ、この新体制の恩恵を被った都市である。官営都市、あるいは行政の府としての札幌は、これを契機に経済中枢としての地位をも手に入れたからだ。つまり小樽は、札幌の隆盛と共に衰退したまちなのである。(p.103)


戦中と戦後の状況の大枠を的確にとらえている。


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