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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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下村仁 『西洋館の履歴書~北海道~』(その2)

明治45年(1912年) 北2条の裁判所庁舎は手狭となり、老朽化したことや駅前通の再開発の動きもあり、札幌地方裁判所、札幌区裁判所の合同庁舎が大通西13丁目の旧練兵場の一部(現札幌市教育文化会館付近)約3千5百坪の敷地に南面して新築され、札幌軟石造の二階建本館に木造平屋の付属屋のある建物が6月に竣工、7月に開庁。
 その後、北大通西12丁目には官舎が建てられた。(現在の札幌家裁・簡易裁判所合同庁舎付近)

▷前述の通り、まだ大通は西10丁目までしかなく、それより西側は練兵場の跡のほか住宅も殆どなく、牧草地として牛が放牧され、原っぱの中に裁判所庁舎がポツンと建っている状態であった。(p.216)


100年ほど前の札幌の状況。



大正15年/昭和元年(1926年) 8月、工期4年半を要して「札幌控訴院」が竣工。
 ……(中略)……。
 この頃から南大通西10~13丁目にかけて弁護士の住宅兼事業所が建ちだす。
▷この札幌控訴院や札幌地方裁判所の庁舎正面上部の飾り破風にはかつて「菊の紋章」がついていた。
 戦前の全国の地方裁判所以上の裁判所には、大日本帝国憲法により、天皇の名において裁判を行ったことから、「菊の紋章」が掲げられた。(p.217)


具体的にどこの場所なのか次会訪れる時には注意してみてみたい。



昭和19年(1944年) 12月、男性医師が軍医として次々と招集された結果、国内の医師不足を補うための措置として「北海道庁立女子医学専門学校」(女子医専と記す)が設立されることになり、その付属病院として社会事業協会病院を転用、この病院に近く女子の寄宿舎もある北星高等女学校に白羽の矢が立てられた。
 そのため女子医専との間で――北星高等女学校の校舎・寄宿舎及び敷地を無期限、無償で女子医専の校舎が完成するまで貸与することを内容とする――賃貸借契約が結ばれた。
 また覚書きには、昭和20年度から北星は保育科以外の生徒募集を一時休止することなどの条件もつけられた。それは在校生が卒業した後は事実上廃校の危機に直面するものであった。(p.227)


第二次大戦末期の医師不足とそれへの対応としての女子医専が設立されたことに加え、このような「国策的」な女子医専を成立たせるために「ミッションスクール」である北星高等女学校が廃校の危機に陥るような契約を締結させられたという歴史は銘記されるべきものと思う。


昭和20年(1945年) ……(中略)……。
10月、進駐米軍が校地・校舎を接収して衛戍病院として使用することとなり、それに先立つ調査で女子医専と聞いていた学校が実はミッションスクールで、宣教師館の沿革を知ることとなり、接収期間を通じてこの建物を使用することはなかった。この接収により北星高等女学校は大通、山鼻、幌北の各国民学校に分散して移転、女子医専は付属病院に移転した。女子医専はやがてその病院の敷地とその隣接地に校舎を建て、昭和25年(1950年)4月に「札幌医科大学」となった。(p.227)


敗戦後、進駐軍が入ってくることは、北星高等女学校側にとってはある種の解放となったと思われる。

また、札幌医科大学の前身が女子医専であったとは本書を読むまで知らなかった。女子医専は道立に相当するはずだが、札医は市立であるあたりなど、いろいろと気になる。



昭和20年(1945年) ……(中略)……。
10月、郵船小樽支店も接収され、事務所は南浜町に移転した。
 この頃、1階営業室西側に3本の補強鉄柱が設けられた。(p.300)


旧日本郵船小樽支店に関する記述だが、こんな敗戦直後に補強工事をしていることに驚いた。



明治9年(1876年) ……(中略)……。
8月、改正国立銀行条例公布。
▷明治5年の条例に基づいて設立された国立銀行はこの時までに4行のみで、当初の構想通りにはゆかず営業不振が続いていた。大蔵省はその振興策を検討し、銀行券抵当公債の範囲の拡大、銀行券兌換制度の改革を主眼として条例改正案を太政官に稟議し裁可を得たもので、これにより国立銀行の設立が容易になり、正貨準備なしに資本金の8割まで銀行券の発行が可能となったが、不換紙幣引揚げ等の問題は残された。これ以降国立銀行は急速に増加し、明治12年11月の第百五十三国立銀行まで設立されたが、それ以降の国立銀行設立は認められなくなり、私立銀行等が設立される。(p.307-308)


急速に普及するにあたって重要だった条件は何だったのだろう。



明治45年/大正元年(1912年) ……(中略)……。
入船通りは、この頃は入船川が流れ、両岸は柳並木となっていたが、昭和の初期頃に川は暗渠化され、柳も取り払われたと伝えられている。(p.350)


このように川が暗渠化されたところというのは結構あると思われる。

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