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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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山崎元一 『世界の歴史4 古代インドの文明と社会』

 『リグ・ヴェーダ』に登場するこれらの神のなかには、ゾロアスター教の神々やギリシア・ローマの神々と共通するものも多い。たとえば、天神ディヤウスはギリシアのゼウス、ローマのユピテル(父なる天、ディヤウス・ピタル)に、天空・友愛の神ミトラはゾロアスター教の太陽神ミトラ(ミスラ)に相当する。(p.54)


イランのゾロアスター教との相互関係は隣接しているので容易に理解できる。ギリシアの神も、ギリシア人が結構いたということが本書では説明されている。本書により認識が深まった点は、ギリシアとインドではそれまで思っていたよりも文化的な交流があったということだった。



先住民の信仰と関係するものとしては蛇(ナーガ)崇拝があり、わが国の竜王・竜神信仰はここに起源の一つをもっている。香川県の琴平町に祀られている金毘羅は、ガンジス川のワニ(クンビーラ)に由来する竜神である。(p.55)


龍というと日本には中国から来たというイメージがあるが、インドにまで遡る(ものがある)と知っておくのは悪くない。



 不可触民の存在は、ヴァイシャとシュードラにある種の優越感をもたせ、経済活動の担い手であるかれらと支配階級との間に生ずる緊張関係を緩める効果をもっていた。(p.82)


ヴァルナ制やカースト制は支配者にとっては極めて都合の良い身分制度である。



 俗世を支配する王といえども、輪廻転生から自由ではありえない。古代インドの王たちは、善政や大供犠・大布施・寺院建立といった功徳を積んで来世に天国に生まれることを願い、悪政や不信心の報いで地獄に堕ちることを恐れた。だからといって、善王が他の文明世界にくらべて圧倒的に多かったというわけではないが……(p.87)


宗教が説く倫理や世界観と、そうした教説が現実にもたらす効果とは別のものである。恐らく寄付や寄進のような「善行」であればイスラーム世界においての方が遥かに活発だったであろう(このようになったのは思想的な理由というよりも制度的な理由が大きいのだが)。



布施を意味する語はダーナで、施主はダーナ・パティと呼ばれた。わが国の「旦那」や「家」は、このダーナ〔・パティ〕に由来する。もともと敬虔な信者を意味する仏教語であったが、俗化して、財物を与えてくれる「ご主人さま」を旦那と呼ぶようになった。(p.128)


日本語の単語にはインド由来のものが結構あるようだが、一つ一つがなかなか面白い。



『論蔵』として総括される一群の仏典は、各部派の教理解釈を収めたものである。この『論蔵』にさきの『律蔵』『経蔵』を加えたものが三蔵であり、三蔵に精通した学僧が三蔵法師(ほつし)と呼ばれた。中国の仏教史上でこの尊称に最もふさわしい人物は唐の玄奘であるため、玄奘個人がこの称で呼ばれることもある。(p.132)


この点については、玄奘個人の尊称なり通称を「三蔵法師」と呼ぶものだと思っていた。今までこれが一般名詞だと考えたことはなかったので、驚いた。



 歴史的に眺めると、バラモンたちの南インドへの移住は、この地の王たちによる積極的な誘致によって促された。部族制の段階から王制への移行期において、バラモンは王権の正統性を宗教的に承認し、その強化に貢献したからである。
 またバラモンがもち込んだヴァルナ制度のイデオロギーは、階級社会に秩序を与える上に役立った。王たちが村や土地を施与してバラモンの定着を図ったのは、かれらのこうした役割に期待したからである。(p.220)


中世以前において宗教は一般にここで述べられているのと同様の役割を果たしてきたと私は考えている(例えば、日本に仏教が入ってきた時も、政治的な意味を抜きにしては考えることはできないであろう)。ヒンドゥー教やバラモン教ではヴァルナ制度やカースト制度が伴ってくるため、支配者にとっては他の宗教と比べても、かなり都合の良いものだったと思われる。



 ユーラシア大陸の中央に位置し、隊商が頻繁に往来したこの地域も、ヨーロッパ人が海路アジアにやって来るようになると、その歴史的役割を終え、やがて西方世界の人びとから忘れられてしまった。
 ヨーロッパ人がこの地の重要性に目を向けるようになったのは、19世紀の後半になってからである。当時、南下策を進める帝政ロシアは中央アジア・アフガニスタン方面への進出を企てており、その先駆けとして、中央アジア探検を推進した。一方、この動きを植民地インドに対する脅威とみたイギリスも、中央アジア方面への関心を高めた
 こうした動きがきっかけとなり、19世紀末から20世紀初めにかけて、これら両国をはじめ、ドイツ、フランス、スウェーデン、日本などの国々が、地理、民族、歴史、宗教、文化を調査するという目的を掲げて、この地に探検隊を送り込んだ。(p.343)


この地域とは中央アジア(西域)のこと。

19世紀末から20世紀の初めころにこの地域に各国が探検隊を送ったことについて、探検隊はロマンを求めていたかのように描かれることがあるが、ここで指摘されているように当時の国際情勢が背景にあったと見るべきだろう。(なお、19世紀の前半からイギリスはアフガニスタンを勢力下に置こうとしてアフガン戦争を起こしていた点にも留意すべきだろう。つまり、19世紀末よりも前から関心が高まる条件は整ってきていた。)

ちなみに、「シルクロード(ドイツ語のSeidenstraßen)」という言葉が出てきたのも1877年のことであるが、ここで指摘されているような形で中央アジアに対するロシアやヨーロッパ諸国での関心が高まったことと関連としていると思われる。


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