アヴェスターにはこう書いている?
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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その4)
第Ⅱ部 集団の運命と全体の動き より

地理上の大発見を挑発したのはトルコによる征服であるという説明をたぶんくつがえさなければならない。反対に、たしかに地理上の大発見こそ、レヴァントを取るに足りない利益の地域としたのであり、その結果、トルコは大した困難もなくレヴァントにおいて領土を拡大し、居すわることができたのである。というのは、それでもやはり、トルコが1517年1月にエジプトを占領するのは、二十年前[1498年]にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰就航を実現したからである。(p.26)



ブローデルの見解に対して異議がある。むしろ、この箇所からは(というより、むしろ、ここに至る叙述自体がそうなのだが)「何としてもトルコを貶めたい、西欧こそが優れていると証明したい」という――ユーロセントリズム的な――情念さえ感じる。

いわゆる「地理上の発見」が後々になってから、結果としてオスマン朝が支配していたシリアやエジプトの弱体化を招いたとは言えるが、16世紀初頭の時点で、そこまでオスマン朝は弱体化してはいないはずである。仮に弱体化があるとしても、「地理上の発見」に伴うダメージは小さいのではないか。

私の知識では一応そういうことになっているのだが、突き詰めてみれば十分な確証はない。(専門家でも十分な結論を出すのは難しい?)この点は、時間があるときに少し調べなおすことにしよう




カトリック両王時代のスペインとフェリーぺ二世時代のスペインの中間にあるカール五世の時代は、全世界的な意味を帯びていた。十字軍精神そのものが変化した。十字軍精神はそのイベリア的性格を失い、<レコンキスタ>の理想から遠ざかる。(p.40)



これは「精神が変化した」というよりも、むしろ、そもそも十字軍的イデオロギー自体、当時における帝国主義の表現形態だったという捉え方の方が自然であるように思われる。「十字軍精神」と言ってしまうと、むしろ、その精神のありようを実体化してしまうことになる。

つまり、十字軍精神は、レコンキスタだけでなく、エルサレムやシリア方面への軍事遠征でも、ヴェネツィアやコンスタンティノープルの占領でも、南仏へのカタリ派討伐(アルビジョワ十字軍)でも、基本的に同じと考えて良いのではないか。

そして、カール五世がとらわれた「世界君主国」の理想も、結局は自分の支配領域の近隣の領域を自らの勢力圏に入れてしまおうという野心にほかならないとすれば、これらは一言で、領土的な野心というべきであり、いずれも経済的な利益を大きな動機としつつ、軍事的に拡大を行おうとしたことを考慮すれば、帝国主義的と形容してもそれほど的外れでは内容に思われる。




結局、我々歴史家は、封建主義、ブルジョワ階級、資本主義といった我々のつくりあげた数々の言葉を用いているが、それらの言葉が意味する現実が、時代によって異なることをいつも正確に考慮しているわけでではない。(p.139、本文の傍点は下線に変更)



ウェーバーの理念型を用いた方法論の利点は、このことをよく自覚しながら説明を行いやすいところにある。

ただし、その欠点もいくつかある。概念の境界領域の内部と外部のつながりが、意識の上で断ち切られてしまいやすいことであり、さらに、概念構成のあり方自体に対する反省は必ずしも容易ではない、ということである。

後者は要するにブローデルが言っていることを一歩抽象的なレベルに後退させただけとも言えるため、その意味では理念型による利点の効果を相殺する要素と言える。

しかし、ブローデルが注意を促す考慮を怠ると、叙述が論理的に誤ったものとなってしまうのに対し、理念型のレベルでの留意が不十分であるだけであれば、叙述の論理性は確保しやすいという点でやはりメリットは残る。(そして、ウェーバーが言うように、論理的に「正しく」理念型が構成されていれば、その叙述が現実と対応しなくとも、それゆえにこそ発見的な手段として役立てることもできる。)




強盗行為は至るところにあり、多様な顔を持っている。・・・(中略)・・・。ポルトガル、バレンシア、ヴェネツィア、イタリア全土、オスマン帝国の全領土において、絶えず場所を変える――これは盗賊たちの力である――盗賊の小国家は、音も立てずに、カタルーニャ・ピレネー山脈からグラナダへ、あるいはグラナダからカタルーニャへ移動したり、ヴェローナ付近のアルプス山脈からカラブリア[イタリア南部]まで、アルバニアから黒海まで放浪したりすることができる。この非常に小さい勢力が既存の国家をばかにし、ついには国家を衰弱させるのだ。彼らは最近の人民戦争のパルチザンに似ている。民衆はいつも彼らの味方である。(p.148-149)



2007年現在で言えば、ここで述べられている盗賊たちは、アルカイダやハマスのような組織にあたるだろう。ブローデルは、こうした小国家の力に対して巨大な帝国は勝利できなかったことを描いているが、昨今の世界情勢でも同じような状況にあるように思われる。アフガニスタン、イラク、パレスチナ、いずれも軍事大国の側の被害は甚大であり、――ブローデルの指摘どおり――民衆は「パルチザン」の側の味方である。




次はブローデルではなく網野善彦によるコメント。

ブローデルの広い視野から描かれたこの全体史の中に、女性の姿が余り現れないのが気になったのは、私の浅いふれ方のせいであろうか。(p.ⅩⅨ)



確かに言われてみれば、その通りである。
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