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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ポール・タフ 『成功する子 失敗する子 何が「その後の人生」を決めるのか』(その2)

 ハーバード大学の経済学者であるクローディア・ゴールディンとローレンス・カッツが2008年に出版した大著『教育とテクノロジーの競争関係』(未邦訳/The Race Between Education and Technology)で詳述されるところによれば、20世紀アメリカの高等教育の歴史は事実上、民主化の歴史と重なるという。1900年生まれのアメリカ人男性のうち大学を卒業した者はたったの5パーセントで、その5パーセントはすべてにおいてエリートだった。裕福な白人で、連帯感が強かった。しかし1925年から1945年のあいだに大卒のアメリカ人男性の割合は5パーセントから10パーセント、つまり倍になり、1945年から1965年のあいだにはそれがさらに倍になった。これは戦争帰りのアメリカ兵が大学に行くのを助けた新法、復員兵援護法によるところが大きい。ちなみに女性については、大卒者の割合の増加は1960年代のはじめまではささやかなものだったが、その後は男性の増加率をはるかに超えた。結果として、アメリカのキャンパスはエリートだけの場所ではなくなり、多様性が増した。工場労働者の子供が工場所有者の子供と同じ空間で学ぶこともありえた。そうした時代には「教育にかんする上向きの流れがそのまま社会全体の特徴となっていた」と、ゴールディンとカッツは書いた。「各世代がそれぞれに、まえの世代の教育レベルを大きく超えた」。しかしいまやその前進は止まってしまった――少なくとも立ち往生している。そして高等教育システムは社会の流れをつくる道具であることをやめ、平等の機会を増やすことをやめてしまった。20世紀の大半はその役割を果たしてきたというのに。(p.226-227)


高等教育をより多くの人が受けるようになったことと民主化の歴史とが重なるというのは興味深い。



しかしここ何年かで、大学の入学にはそう大きな問題はないことがわかってきた。限定や不平等の問題があるのは卒業のほうだった。経済協力開発機構(OECD)の加盟34カ国のなかで、大学への入学率ではアメリカはまだ八位というりっぱな順位を保っている。だが卒業率――新入生が卒業まで到達する割合――となると下から二番め、うしろにいるのはイタリアだけである。そう遠くない昔、アメリカは大学の卒業生を生みだすことにかけては世界をリードしていた。それがいまでは大学の中退者を生みだすことで世界をリードしている。
 よくわからないのは、この現象が大学教育の価値の急上昇と同時に起こっている点である。学士号を持ったアメリカ人は、高校の卒業証書しか持たないアメリカ人と比べて83パーセント増しの収入を期待できる。これは――経済学者にいわせると「学歴間経済格差」という用語になるが――先進国のあいだでは最も高い数値で、40パーセントしか差のなかった1980年以来急激に増えた。(p.227)


入学できたとしても「やり抜く力」がない学生ほど中退しやすいことはたしかダックワースの本(『やり抜く力』)でも述べられていたように思う。日本のように入学すればたいていの人は卒業できてしまうシステムではなく、ある程度の基準をクリアしなければ卒業できない欧米の大学ではなおさら影響は大きいだろう。社会的・経済的に不利な条件で育ってきた人であるほど、卒業できる可能性は低い(そのために必要なスキルが養われていない可能性が高い)。不平等を放置することによって不平等はさらに拡大していく。

なお、後段で大学教育の(経済的)価値の急上昇について述べられているが、これは大学の教育時代の価値というより、有利な立場にある者ほど大きな報酬が得られる社会になったことの反映である。このような報酬の配分は、改められるべきものである。



2006年の論文で、ロデリックは大学での成功に決定的な意味を持つ要素は「非認知的スキル」であり、そこには「学習能力、学習習慣、時間管理、助力を求める行動、社交及び学業における問題解決能力」が含まれるとした。「非認知的」とい用語をジェームズ・ヘックマンの研究から借りながらロデリックが書いたところによれば、昨今アメリカでますます広がる高校と大学のあいだの溝を埋めるのがこうしたスキルだという。現在の高校のシステムができたときの第一の目的は、大学に行かせるためでなく仕事に就かせるために生徒を訓練することだった。当時そこでは「批判的思考や問題解決能力はあまり高く評価されなかった」(これはボウルズやギンタスのような、性悪説を採るマルクス主義経済学者が書いたのとおなじ時代の話である)。だから従来のアメリカの高校は、生徒がものを深く考える方法を学んだり、内なるモチベーションを高めたり、困難に直面したときに粘ることを教えたりするようにはできていない――だが、まさにこれが大学に残るために必要なスキルなのだ。(p.242)


「高校と大学の溝」というのは、私が興味を持っている点の一つである。それを埋めるのが非認知的スキルだというのは納得できる。

現代の日本の高校や大学の問題を考える場合、この溝はどのようになってきているのだろうか?大学が高校化してきていはしないだろうか?このような疑問を持っている。なかなか明確に測定しにくい問題でもあり、この問いに明確に応えてくれる書物や論文に出会うことはできていないが、進学率が50%を超えるほどになったことを考えれば、この全体に真に大学レベルと言いうるだけの高等教育(自分で研究をすることができるレベルまで育てる)を施すことは事実上困難ではないかと思われ、これらが出来ない大学では自ずと高校的な授業をする誘因が働くのではないか。


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